さる8月30日、私は、在日コリアンの弁護士集団である「LAZAK」の総会に呼ばれ、1時間ほどの講演をしました。タイトルは「麹町から人権を貫く」です。これまで歩んだ道を振り返りました。
私は、1973年に弁護士になった年からサハリン残留韓国人問題に関わりはじめ、86年には在韓被爆者問題に取り組む日弁連の人権委員となり、他方、在韓被爆者問題市民会議を設立しました。
そして、91年12月にいわゆる元従軍慰安婦3名を含む41名を原告とした、最も注目を集めた韓国太平洋戦争犠牲者遺族会の裁判を始めたのです。その後、93年1月にはフィリピン従軍慰安婦裁判を始め、同じ93年8月には、香港軍票補償請求裁判にも取り組みました。
このように、90年代に私は四つの弁護団による裁判に取り組みました。
それぞれ10人から20人のボランティア弁護士による会議が麹町の私の事務所で毎週のように続いていました。この裁判闘争でそれぞれの戦争被害を歴史的に追及することにより、日本の戦後補償責任を法的に明らかにし、世論化することを目的としていました。
裁判だけではなく、91年からアジアの戦争被害者を東京に一堂に集めた「戦後補償国際フォーラム」を実行委員長として5年間開催しました。
アジアの戦争被害者は、韓国、サハリン、中国、台湾、香港、フィリピン、マレーシア、シンガポール、マーシャル諸島、パラオ、パプアニューギニア、アッツ島、そして在日など13の地域から参加してくれました。
92年12月、太平洋遺族会の訴訟提起の記者会見では、多くのマスコミが来てくれましたが、マスコミは決して公平には取材してくれません。
性的な問題に関する慰安婦問題に関心が集中したのです。彼らの関心は元慰安婦の金学順さんだけでした(本稿№9参照)。
私が弁護団長として元軍属や遺族の原告を順に紹介したのですが、その過程には目もくれず、最後に紹介した金学順さんにすべてのカメラとマイクが動き出し、体験を話す金学順さんが流した涙には特にフラッシュ・ライトが集中しました。
この涙で日本人が加害者であり、アジアの戦争被害者に対する戦後補償をするべきであるとの世論が盛り上がったのは事実です。
しかも、日本の政権も慰安婦問題を調査し、河野官房長官談話で認めた宮沢政権から野党に政権が移り、細川政権から村山政権へと戦後補償に理解のある権力へと大きく動いたのです。
このような流れをつくった政治家として、村山政権の官房長官だった五十嵐広三議員が大きな役割を果たしてくれました。この点、私を友達と呼んだ仙谷由人議員は菅直人政権の官房長官となったのですが、私との面会を避け続けたのは残念でした。慰安婦問題を筆頭に戦後補償実現へ向けて流れが出来そうになった時、最も効果的な立場にいた仙谷議員が動かなかったのです。
それでも私たちの運動は無駄ではないと考えています。サハリン問題では日本政府支援による一時帰国はのべ約2万人にも達し、永住帰国者は4000人を数えます。
在韓被爆者に対する援護は国籍条項がない公平な援護が実現しつつあります。
慰安婦問題では日本国民から1人200万円の償い金、日本政府から医療福祉名目で300万円、さらに元慰安婦に日本の総理大臣からお詫びの手紙という3本柱の施策は、慰安婦問題において前進だと評価してもよいと思っています。
日本での裁判はほとんど棄却されましたが、個人賠償は未解決として韓国でいわば第2ラウンドの裁判が動いています。今後とも注目して行き、関心を持ち続けてほしいと思います。