明王に聖を冠すれば聖明王となり、欽を冠すれば欽明となる。すなわち、明王は百済でも倭でも通用する名称であり、つまり百済と倭の大王を兼ねていて、百済の大王として指称する場合は聖明王と呼び、倭の大王として呼ぶ場合は欽明と称していたのではないかと思われる。つまり、異名同人ということだ。任那復興会議で、聖明王が主導していることもその証左と見られる。
欽明は63歳で死去したということだが、『日本書紀』は死去年を「年若干」と記している。63歳を「年若干」と記すのは、どう考えても不可解なことだ。欽明の即位年を531年とし、そのとき欽明は10歳余であったという説もあるが、治世33年であれば、欽明の没年は43歳余となるから、その年を「年若干」と記すのも不可解なことだ。
欽明の即位年も「年若干」、没年も「年若干」の真相は、欽明の摂政、あるいは傀儡がいたことを暗示していると思われる。その摂政なり傀儡は聖明王であったと考えられるのだ。あるいは聖明王の意を体得した蘇我稲目とも考えられるのだ。
”幻の大和朝廷”論を展開する日本史学界
末松保和著『任那興亡史』などの曲学阿世の日本史学界は、「任那日本府」を創作し、加羅を任那と見なし、悠久の昔から韓半島を支配したように論述。換言すれば、”幻の大和朝廷”論を展開しているのは、偽史の塊に過ぎない。倭=沸流百済であることを認識すれば、倭は百済の属領であったことが明らかになり、倭が支配したという韓地の任那は、沸流百済のかつての属領であったことがわかるのだ。
それを、日本史学界は逆手にとった形で、つまり逆転の発想で、倭が支配したように見せかけているのだ。そして、韓半島南部の加羅が任那だとして、教科書に著述し、それを韓半島侵略の根拠とし、後進に教えることは非良心的であり、歴史を歪曲する犯罪行為以外の何物でもない。
随時言及している百済系大和王朝は、自らの存在を新羅系山陰王朝に覆いかぶせる形で、自らを悠久の昔から存在していたかのごとく偽装し、”幻の大和朝廷”を創出した。その具体的な形が〈神武紀〉や欠史8代などと称される朝廷の小説化だ。それは史実ではなく、新羅系山陰王朝の事績を簒奪し、適当に組み替えた朝廷なのだ。
その”幻の大和朝廷”が、いかにも巨大であったかのごとく見せたのが、大和朝廷による韓地支配のイメージ作りだ。それは全くの架空ではなく、倭=沸流百済であることを隠蔽しつつ、沸流百済がかつて韓地で支配していた領域を、倭が支配していたかのごとく偽装したものなのだ。