大韓民国の建国史396

大韓民国経済成長の主役、リーダー、ブレーン、企業
日付: 2025年09月09日 09時22分

 韓国の経済発展と自主国防は朴正煕大統領の知的産物だった。韓国は7次にわたる経済開発5カ年計画を通じて農業国から重化学工業中心の製造業国・貿易国家に生まれ変った。グローバルサウスの多くの国が韓国の発展方式(戦略)を模倣しても韓国と同じ結果を得るのはおそらく不可能だ。目標設定によっては成功を収められるだろうが、韓国のような成功は期待しにくい。
国ごとに置かれている環境や条件が異なるから当然だが、韓国の場合、朴正煕という不世出の偉人が自らの命をかけ長期間、一貫して近代化に邁進したため可能なことだったからだ。
韓国の経済発展において企業の役割も指導者のビジョンほど絶対的だ。短期間で成果が得られる軽工業とは違って、重化学工業(防衛産業)が成功裏に定着、成果を出すには、長期間の投資と適切な管理が前提となる。
朴正煕大統領のリーダーシップは特に、人材を発掘、その能力を発揮させることで輝いた。朴正煕は自分のビジョンを最も効果的に実現できる、具体的な青写真を作り実行する人材を特に大事にした。彼らの人材の共通点(特徴)は、朴正煕と理念、ビジョン、情熱を共有したことだ。彼らが朴大統領のブレーンになった。
ミサイル開発などから見た通り、重化学工業と防衛産業はコインの両面だ。重化学工業、つまり防衛産業には鉄を供給せねばならない。韓国が現代的な製鉄所を持つようになる過程で、朴大統領によって商工部の重化学工業次官補として起用された金在官博士の場合も、大韓民国の建国後に育てた人材が朴正熙のビジョンをどう実現したかを見せる例だ。
政府奨学生としてドイツに留学した後、韓国に戻って浦項製鉄・現代造船・現代自動車など韓国の鉄鋼・重工業産業育成の下図を描いた、1号「誘致科学者」の金在官博士の一代記評伝は韓国の産業化の歴史を圧縮して見せる。
金在官は、ソウル工大の機械工学科を卒業し1956年、産業銀行と西ドイツ留学生試験に同時に合格した。産業銀行は李承晩大統領が作った人材養成制度に基づき留学中も月給を払った。李大統領は科学のことは知らなかったが、米国でMITを訪ね、科学が国家の死活を決めることを理解した。
産銀は、金在官に出国するまで国内の産業現場を見るように斡旋までした。金在官は釜山での避難時代、米軍部隊で働きながら米軍の武器が特殊鋼で作られたことに注目。ミュンヘン工科大学で彼の専攻である金属学はそのとき決まったかもしれない。
彼は貧しい政府の奨学生として、博士号を取得するまで、4つの分野を研究した。最初は機械工学だった。機械工学が発展するためには鉄鋼学が基礎にならねばならないと考えた後は、鉄鋼学に没頭し、その後は鉄鋼学の土台である金属学を勉強した。最後に自動車工学に目を向けた。博士学位を受け、世界的製鉄所であるデマーク(DEMAG)の総合企画室に入った。
2年後、朴大統領が借款を得るため西ドイツを訪問した。西ドイツに出稼ぎにきた鉱夫や看護師たちの前で涙の演説をしたあの訪問だ。朴大統領は留学生たちを招待し朝食を一緒にした。朴大統領が「話したいことがあれば言って欲しい」と言うや、一人が出た。彼は大統領に「韓国鉄鋼工業育成方案」という厚い論文を献じた。金在官は、留学と職場生活を通して韓国に総合製鉄所を建てる問題に没頭した。製鉄所は李承晩大統領時代から国家的課題だったが、まったく方向も掴めなかった。
(つづく)


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