経営者立志伝 揺るがない「育英報国」の信念

金基炳 美林学園理事長の哲学とは
日付: 2025年08月15日 00時00分

 「私の人生で最も誇れることは、学校を創ったことです」。韓日協力委員会理事長兼ロッテ観光開発の会長を務める美林学園の創設者、金基炳理事長は迷いなく語った。IMF経済危機、事業の法的整理危機、コロナ禍など幾多の困難を経て、40年にわたり学校を守り抜いてきた人生は、「人を育て、国に報いる」という「育英報国」の理念そのものだった。

(ソウル=李民晧)


教育不毛の地にまいた「人材育成」の種

美林学園創設者の金基炳理事長は1938年、現在の北韓・江原道元山に生まれた。9歳で南へ渡り、韓国外国語大学を卒業した後、公職の道へと進んだ。張基栄・経済副首相の秘書官として経済開発第3~5次計画に携わり、いわゆる「漢江の奇跡」の礎を築いた功績がある。

しかし、将来を嘱望されていた官僚職を73年に辞し、「外貨を稼ぎ、国に貢献したい」という思いから観光業へ転身。その際に設立したロッテ観光は、韓国観光産業の草分けとして、国内における観光の代名詞へと成長した。

実業家として成功を収めた同氏が、もう一つの「報国」の形として選んだのが「教育」だった。「真の民主国家は福祉社会の実現によって築かれ、それは教育によって育てた人材によって成し遂げられる」。この信念のもと784月、ソウル新林洞に女子教育に特化した学校法人「美林学園」を設立した。周囲からは「なぜソウルで最も発展の遅れた地域である新林洞に学校を建てるのか」と疑問の声も上がった。「どうして新林洞なのか」「女子校ではなく男子校なら野球部もサッカー部も作れるのに」といった助言もあった。

当時はソウル江南地域の開発が盛んな時期だった。金理事長は「心が揺れなかったと言えば嘘になります」と語る一方、信念を曲げなかった理由として「取り残された地域に学びの場をつくり、女性人材を育成してこそ国が強くなる」との思いがあった。こうして、新林洞の山あいに女子教育の礎が築かれた。

 困難に揺るがない「育英」の信念

学校運営にかける金理事長の思いは特別だった。開校以来、一度として法人からの拠出金を途絶えさせたことはない。98年、IMF経済危機で国の財政が揺らいだ時も、2013年に龍山の再開発が頓挫して会社が法的整理の危機に直面した時も、そしてコロナ禍で観光業が世界的に停滞した時期も、同氏は学校支援の手を緩めなかった。

「事業が厳しいからといって、教育を投げ出すくらいなら最初から手を出すべきではなかった。やるべきことをしているだけだと思っています」
その献身ぶりは、生徒たちの実績として返ってきた。1985年には、第4期卒業生が全国学力試験で1位を獲得。梨花女子大学への首席入学者も2人輩出している。

 女子オーケストラとIT専門高校

金理事長の教育理念は、時代を先んじていた。「1人1楽器」の発想が一般的ではなかった82年、美林学園に吹奏楽部を創設。これが国内唯一の女子管弦楽オーケストラ「コリア・ウィメンズ・ウィンド・オーケストラ(KWWO)」に発展した。

オーケストラはコロナ禍の期間を除き、毎年公演を続けてきた。88年のソウルオリンピックの記念演奏に加え、日本や米国、豪州などの海外バンドとも交流を重ね、名声を確立。さらには世宗文化会館や芸術の殿堂、KBSホールといった韓国屈指の舞台にも立ってきた。

91年には韓国初の女子IT専門校「美林女子電算高校(現・美林女子情報科学高校)」を設立。「世の変せんを通じ、子どもたちに広い視野を持ってほしかった」と語る。同校は100%に近い就職率を誇り、女性IT人材育成拠点として地位を確立した。

 「夢を輝かせてくれた人」

2019年、開校40周年を記念して卒業生たちが贈った感謝の楯には、同氏の教育哲学が刻まれている。「若者たちに夢を与えよう。夢を思い描き、育て、輝かせることだけが、私たちを豊かにする。その創設者の願いのおかげで、私たちは夢を見ることができ、それを育て、輝かせることができました」。

新林洞の山あいに建てられたその学校は、現在では女子高校2万1000人、情報科学高校6500人、計2万7500人の卒業生を輩出した。「教育を通じて社会に貢献する」という志は、今もなお「美林」の名のもとに受け継がれている。

金基炳理事長が掲げる「育英報国」の精神は、若者たちの夢のなかで生き続けている。「この国で一番美しい学校(美林)をつくりたい」という約束は、校びやの隅々で清らかに息づいている。

(上)1979年に行われた美林学園の開校式。(下)2018年に行われた卒業式の様子


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