1967年6月、第3次中東戦争が勃発すると、ニューヨークのJFK国際空港は祖国を守るために志願入隊しようとする在米ユダヤ系青年らでごった返していた。海外メディアはこの光景を「世界初の在外国民による参戦」と称賛した。
しかし、それは誤報だった。これより17年も前の1950年、北韓による南侵で祖国が共産化の危機に陥ると、命をかけて海を渡った若者たちがいた。日本に居住していた642人の大韓民国の学徒たちだ。在日の若者たちは安定した生活を捨て、命を賭して銃弾の飛び交う戦場へと飛び込んだのだった。(ソウル=李民晧)
国が滅びかねないその時…
1950年9月7日、東京・神田の駿河台ホテル前。韓国の「建国行進曲」が力強く響き渡っていた。太極旗を身にまとった青年たちは、決然たる表情で出征式に臨んでいた。彼らの多くは大学や高校に通う学生であり、海外在住者として兵役義務も免除されていた。安全圏にいた彼らが、わざわざ危険な戦場に向かう理由などなかった。
だが彼らが口を揃えて語った参戦理由は、「再び亡国の痛みを味わうことはできない」というものだった。参戦者の宋東源と柳升鎬は「国が消滅しかねない状況で、他のことを考える余裕などなかった」と証言する。日本の統治時代、亡国の民として生きた辛苦が、彼らを自発的な「決死兵」にしたのだ。
この日、第1陣として集まった78人は、万歳三唱を叫んだ後、米軍のトラックに乗り込んだ。大学生59人、高校生2人、そして職を捨てた社会人ら。婚約者がいた家の3代目の男子・李活男(明治大学2年)もすべてをなげうって入隊トラックに身を預けた。
唯一の印である「S〓V〓Fr om JAPAN」
第1陣は、埼玉県の朝霞基地で基礎的な軍事訓練を受けた後、9月12日に横浜港から米軍輸送船に乗り込んだ。彼らの身分を示す唯一の印は、肩章に縫い付けられた「S〓V〓From JAPAN」(Student Volunteer、日本から来た学徒志願兵)という文字だけ。
無籍のまま米第7師団に配属され、彼らが最初に参加したのは、6・25戦争の行方を変えた仁川上陸作戦だった。
その後、関西地方と中部地方の青年266人から成る第2陣、関東地方の志願者101人で構成された第3陣が相次いで合流した。
「おい坊主、銃は撃てるのか?」
軍籍番号すら持たなかった在日学徒義勇軍は、しばしば揶揄の対象となった。米兵から「おい坊主、銃は撃てるのか?」とからかわれた最年少の趙承培は、銃口を相手に向けて対峙した。以来、彼をからかう兵士はいなくなった。
「我々ジャパニーズ・コリアンは、侵略者から祖国を守るために参戦した」と、彼らは毅然としていた。命知らずにも勇敢に戦う姿に、米兵たちは驚きと敬意を隠せなかった。
義勇軍は第5陣まで、さまざまな戦線に投入された。第1・第2陣は仁川上陸作戦の後方支援任務を担い、第3陣は元山・利原上陸作戦を経て、長津湖戦闘や恵山鎮奪還作戦にも参戦。九州出身の第4陣(145人)は韓国軍第9師団に配属され、白馬高地の戦いや中部戦線の高地戦などに投入された。第5陣(52人)は唯一、日本で軍番号(K1138301~K1138352)を付与され、米第3師団所属として元山進撃や長津湖戦闘に加わった。
52年、米CBS放送は、国籍も所属も不明な在日学徒義勇軍を「幽霊部隊」と呼び、その存在を世に伝えた。
在日の専属部隊「3・1独立歩 兵大隊」
一方、最前線での戦闘を望んだ義勇軍の熱意は、彼ら独自の部隊創設へとつながった。日系アメリカ人のジミー・コザワ中尉が、第2次世界大戦中に有色人種部隊が挙げた戦功を例に取り、ジョージ・スチュワート司令官を説得した結果だった。
50年10月30日、富平基地にて義勇軍323人で構成された「3・1独立歩兵大隊」が創設された。「3・1独立万歳運動」の魂を受け継ぐ部隊の誕生に、義勇軍たちは大いに歓喜した。しかし中共軍の介入で戦況が急変し、米軍は部隊の解散命令を下す。北進から撤退へと作戦が変更され、必要なしと判断されたのだった。3・1大隊は、編制表にも載らないまま、創設から1カ月も経たない11月27日に解散を迎えた。
後日、かつての戦友コザワ中尉の献身的な働きかけにより、77年、在日学徒義勇軍同志会はカリフォルニア州議会から感謝状を授与された。
韓国軍への再入隊 135人の戦死者
米軍から除隊通知を受けた後、義勇軍のうち約200人は日本への帰還を拒否し、韓国軍に再入隊する道を選んだ。24人は陸軍総合学校を経て第22期幹部として少尉任官された。撤退する米軍と共に北九州の門司港に到着した58人も、韓国へ戻り、全員が韓国陸軍下士となった。
韓国軍として生まれ変わった在日義勇軍の活躍は目覚ましいものがあった。李活男少尉は第3師団所属として八王山戦闘で、数百人の敵を殲滅する戦功を立てた。柳升鎬少尉は梅峰山1103高地の戦闘で白兵戦の末に高地を死守した。
だが、栄光の裏には壮絶な犠牲があった。参戦者642人のうち、135人(戦死52人・行方不明83人)が命を落とした。全体の2割を超える犠牲者率は、第2次世界大戦での連合国軍によるノルマンディー上陸作戦のような激戦地で見られるレベルだ。
なかでも行方不明者83人は全員、長津湖の戦いでの犠牲者だ。50年の冬、米軍と共に北進していた義勇軍は、咸鏡南道・蓋馬高原の酷寒の中で中共軍の包囲網に捕らえられた。第5陣として長津湖の戦いに参加した金載生は、当時の惨状をこう証言している。
「目を覚ますと、凍死した仲間の遺体が、まるで凍ったスケトウダラのように積み重なっていた。最初はトラック1台に40人ずつ乗せていたが、数があまりに多くなると、ただの荷物のように山積みにして運んでいた。ろくに人生の喜びも味わえず命を落とした同志たちには、自分だけが生き残って申し訳ないという思いだ」
6・25韓国戦争は彼らに深い傷痕を残した。53年7月27日に休戦となったが、生き残った者たちの苦しみが終わることはなかった。265人は日本に戻ったものの、242人はついに帰国することができなかった。52年のサンフランシスコ講和条約によって主権を回復した日本政府が、彼らを「無断出国者」とみなし、再入国を拒否したためである。
97歳の老兵、最後の願い
第1陣の伝令兵として参戦した朴運旭・在日学徒義勇軍同志会会長は、2021年の長津湖の戦い戦死者遺骨返還式で希望を抱いた。「長津湖で発掘された遺骨の中には、きっとあなたの仲間もいるはずだ」と語った国連軍司令官の言葉がきっかけだった。
長津湖で犠牲となった同志の遺族を探し出してDNAを照合すれば、発掘された遺骨から彼らの存在を確認できるかもしれない。いまだ成果には至っていないが、希望の灯を消すことはできない。
「『国がなくなれば、自分も存在しない』という信念で参戦しました。この目が永遠に閉じられる前に、せめてひとりでも同志の遺骨を見つけたい。97歳の老兵の最後の願いです」
「死してなお報国」
ソウルの国立顕忠院第16墓域。ここには、祖国の土へと還った在日学徒義勇兵50人が眠っている。その隣り、第15・第17墓域には、それぞれ空軍大尉・朴斗元、陸軍中尉・鄭達文が並んで眠っている。奉安館には、行方不明者83人の名前が霊牌として刻まれている。
彼らは徴兵されたわけではなく、兵役義務もなかった。しかし、50年の夏、北韓による南侵で祖国が危機に瀕すると、日本各地から戦場へと駆けつけた。
彼らの名は、今なお多くの人々にとって馴染みがない。しかし、彼らは確かに歴史を刻んだ。韓国の主権を守ることに貢献し、韓米相互防衛条約の締結(53年10月1日)前に、韓国と米国の若者が同じ部隊の一員として血を流したという歴史を残した。そして、「世界初の在外国民による参戦」という事実も、忘れてはならない。在日学徒義勇軍が祖国に捧げた最後の言葉。
「死してなお報国する」。その叫びから、75年。韓国は、彼らの犠牲に報いているだろうか。
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1950年9月、民団神奈川県本部における在日学徒義勇軍の出征式