台湾は1895年、日清戦争の結果として日本の植民地となったのですが、1943年11月のカイロ宣言により日本国が清国人から「盗取した地域」として中華民国に返還することが義務付けられました。
これをそのまま引用したポツダム宣言を日本国は異議を留めることなく受諾し、履行することを約束しました。つまり、上記の内容について日本は異議を述べられないのです。
日本が引き上げた後の47年2月、台北市でたばこを販売していた台湾人女性に対して取締りの役人が暴行を加えた事件が発端となり、市民による市庁舎への抗議デモが行われ、台湾全土に広がった事件がいわゆる「228事件」です(約1年後の48年4月3日に韓国でいわゆる済州島「43事件」も発生します)。
この抗議デモを国民党政府は大陸から転戦してきた軍隊(憲兵隊)をもって厳しく弾圧したのです。各地で裁判官、医師、役人を始め、日本の高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕拷問され、そして殺害されました。私の知っているお医者さんは連れていかれると思い、倉庫の空き部屋にふるえながら何カ月も隠れていたと話していました。
犠牲者数は3万人とも10万人とも推計されています。そして、この事件をきっかけに台湾では49年から87年まで38年間戒厳令が施行され、恐怖政治が続きました。しかし、恐怖政治の中でも真相解明を求める声は次第に高まっていったのです。
その犠牲者の代表的事例に「阮朝日(げん・ちょうじつ)失踪事件」があります。阮朝日さんは新聞社の社長でしたが47年3月12日、突然訪ねてきた警備総指令部の捜査員5人に連れ去られました。そしてそのまま行方不明となったのです。
娘の阮美妹は、父を探し求めました。そして事件後、半世紀が経過しようとする95年、民主化を実現した李登輝総統が初めて、228受難者遺族に対して公式に謝罪して、大きく進展することになったのです。
97年頃には、戦前の生命保険の問題で、私はこの阮美妹さんの相談を受けていました。阮美妹さんはこの年の2月に当時の警備総司令部の運転手をしていた人から、父親の最後の状況を聞くことができたのです。その運転手によると47年3月、阮朝日さんは、台北市の東南部にある小高い山地に車で他の2人と一緒に裏山に追い立てられて、銃声が3発聞こえて殺されたということです。阮美妹著『台湾228の真実 消えた父を探して』(2006年2月まどか出版)。
阮美妹さんの執念は上記の著書にも記録として残されていますが、02年に創設された「阮朝日228記念館」(台湾屏東県林辺郷竹林村中興路612号)に資料が展示されています。この記念館には李登輝夫妻も訪れたそうです。
228事件を明るみにした李登輝氏は1989年、総統に就任し、2000年までの間に民主化を進展させた人です。
私も1995年、土井たか子さんの訪台に同行し、総統が京都で大学生活を送る際に、土井たか子さんの噂を聞いたなどの話を聞きました。228事件の真相解明に一生を捧げた阮美妹さんは2016年11月28日に89歳で亡くなられました。私の事務所には、当時の原稿のコピーが残っており、私にとっても記憶に深い人でした。
この228事件に関連して、基隆市にいた琉球人漁民(日本人)が30人処刑された事件がありましたが16年2月、裁判で遺族に対し1人600万台湾ドル(2050万円)の支払いが認められました。これも戦後補償実現の一事例となっています。なお、李登輝さんは20年2月、97歳で亡くなられました。