「NHKに朝鮮語講座を要望する会」の発足に関わり、事務局長は矢作勝美、事務所は八重洲のゴトー歯科、実務的というか事務は私が担って、1975年秋に発足する。矢作勝美と後藤直は日大芸術学部卒で、金達寿の後輩であった。矢作勝美も後藤直もリアリズム研究会から現代文学研究会へと金達寿と共に歩いている。
「要望する会」の発足以前に高淳日は『朝日新聞』紙にNHKに朝鮮語講座の開設を要望する投書を行っていた。金達寿から言われて高淳日と仲良くしていると、佐藤勝巳が接近してきた。佐藤勝巳は在日朝鮮人社会に通じている人であった。
北朝鮮から勲章を貰ったことを自慢していた。その佐藤勝巳から「高淳日は対日工作員だと知って、手を組んでいるのか」と、問いかけられた。佐藤勝巳は高淳日を北朝鮮の一級工作員だと説明した。
その後の人生で分かるのは、私の周囲は佐藤勝巳認定の一級工作員ばかりであった。だから驚くこともなかったのだ。
一級があって二級があるのか、分からないが、その人たちは北朝鮮に縁戚を抱えていた。70年代の私は北朝鮮に関してだけでなく、韓国に対する知識も『朝日新聞』紙で得られる範囲であった。だから「対日工作員」という言葉はおどろおどろしく響いた。
「NHK本館の近くで高級日本料理店風の朝鮮料理店を構えているのを不思議に思わないのか」と佐藤勝巳は話した。NHKに対する北朝鮮の工作を行っている例に六本木の自衛隊本部周辺の朝鮮料理店の例を挙げた。
当時、自衛隊の本部は六本木にあった。北朝鮮は日本の情報を取るため、日本の重要拠点のまわりに朝鮮料理店を開いていると説かれると妙に説得力を感じた。
それに高淳日から得る北朝鮮情報は、金達寿周辺というか、『季刊三千里』誌の同人の伝える内容と異なる部分が多かった。仲良くなるに従って、高淳日は北朝鮮の素晴らしさを私に説明することが増えていた。兎に角、一級工作員と一緒になってNHK工作をやっていると指摘されると、国家公務員の身を考えて仕舞うのであった。
高淳日とは、1979年夏に勤務先の東京工業試験所が東京都渋谷区から茨城県筑波郡谷田部町への移転に伴って、完全に切れた。それはやがて金達寿との師弟関係の途絶に至る。距離が出来ると通じるにはカネが掛かる。自然と遠ざかったとも言えた。むろん、朝鮮語講座開設を要望する運動とも関わりをなくした。
『くじゃく亭通信』誌の発行への関与を取り下げ、初台から坂を下って「画廊喫茶・ピーコック」に行き、コーヒーを飲むことも辞める。それは私が初台から筑波郡へ移住したから当然の行為でもあった。だが、90年9月の金丸訪朝に伴い、北朝鮮の産業史の調査を職務とするに至って、済州島と日本の関わりを再度調べることが増える。それの延長線上に2011年、片岡千賀之『長崎県漁業の近現代史』も読んだ。
私の心は大きく揺らいだ。30年の時間が経過していたが、高淳日に連絡を取った。
高淳日はそれから『くじゃく亭通信』誌を復刻することに同意を求めてきた。その時に、高淳日は金正恩の母堂の高英姫を、我が済州島高一族の誇りだと述べた。高英姫は済州島高一族の娘だと玉城素師から伺っていたので、改めてグチ漁が結ぶ済州島から平安南北道への人の流れが、有明海からの漁法に関わることに気付いた。改めて、高淳日との交流を基底として北朝鮮を済州島から俯瞰するようになった。