また加羅という表記は、対馬にあった加羅を意味する場合が多々あると考証され、対馬には新羅・百済・高句麗の各邑落国があったとされ、佐護加羅は新羅、仁位加羅は高句麗、鶏知加羅は百済にそれぞれ属していたという。
さらに仏教公伝は、第30代欽明の時だとされているのだが、すでに第27代継体朝の16年(522)に百済から司馬達等が渡来して、大和国高市郡坂田原に草堂をいとなみ、仏像を安置して礼拝帰依したのが日本における仏教私伝の初まりとされていることを明らかにした。
応神以降続いた王統は、武烈を最後に血筋が途絶えたと見られているのだが、後継者である第27代継体は、『記・紀』によれば、応神の5世孫とされる。血統による正統と権威が絶対視された時代にあって、本当に武烈を最後に血筋が途絶えたのだろうか。
〔安閑紀〕
安閑は即位する前に殺されていた
〈継体紀〉に安閑が太子の時のことが記載されていることに、奇異の念が生じた。〈安閑紀〉に載せたらいいものをと感じたからだ。太子の妃の春日姫のことも同様で、かなり長文のロマンス記事が〈継体紀〉に、なぜ収載されているのか、はなはだ疑問だ。
そして最大の疑念が、継体25年条に、継体は安閑を即位させ、その日に継体は死去したという記事があることだが、実際は継体没年が辛亥歳(531年)で、安閑即位年の甲寅歳(534年)であることから、その間に3年間の空白があることを示唆している。その齟齬は一体、何を意味しているのか、ということだ。
安閑は、国押(くにおし)を含む諡号から、和珥氏族の一員であることを明らかにしたが、応神朝以後、和珥氏族の女人が大王の后妃となることが多かったと指摘されている。安閑を支持したのは、正妃の出身氏族である春日和珥氏族で、その勢力は強大であったと見られている。
大伴氏も有力な支持勢力で、大伴氏は大連大伴金村の時に全盛時代を迎えたということだ。また、物部氏族もそうで、物部麁鹿火軍団は安閑の親衛隊的な役割を果たしたと見られている。
安閑朝に諸国に屯倉を置き、統一作業が進行したように記述されているのだが、九州の磐井王国があったのと同様、東国にも毛野王国という独立国があったろうことを明らかにした。