ここに1枚の写真があります。ときは、1989年4月19日、サハリン、ユージノサハリンスク市の市民会館の講堂にぎっしり集まった人々は何かを期待するまなざしで、壇上の私たちを見つめています。すでにソウルオリンピックも終わり、日本での家族再会は、その1年ほど前から主に私の法律事務所が招待者となり東京での2週間の滞在の形で実現しておりました。しかし、私たちの招待事業はボランティアなので、資金力はなく、人材も不十分でした。2週間に一度、20~30人を招待するのがやっとでした。足立区の同胞の家の近くにアパートを2軒借り、文京区に私の顧問会社の所有するマンションの提供を受けていました。この3軒で足りないとき(一度に50人来日したこともあります)には、私の世田谷の自宅にも十数人が泊まりました。
しかし、90年に韓国とソ連の国交が樹立し、日本経由でなくサハリン・ソウルの直行も可能になったのです。私たちが運動を始めた75年頃は、日ソ関係も悪く、いわゆる冬の時代でした。それがゴルバチョフの改革(ペレストロイカ)が始まり、ソ連から出国する環境が少しずつ好転し、85年頃は1年に数人の家族再会に一喜一憂していたのです。そのような中で大沼教授と私の国会議員に対する働きかけが実り、87年にはサハリン残留韓国人問題議員懇談会が設立されたのです。170人もの超党派の国会議員による韓国人のための歴史問題解決のための取り組みは前例のないものでした。利権にも無縁で票にもならないのに、この議員懇はよく働きました。
この写真はちょうど議員懇が動き始めて、毎週のように議員懇と外務省で会議をしていた頃です。私も議員懇の参与となり、それらの会議に出席し、いくつかの要求を実現させることができたのです。私が一市民もしくは一弁護士としてだけなら官公庁とくに外務省をこれだけ動かすのは不可能です。ところが、170人の国会議員を背景にした「参与」に対しては外務省も扱いが違ったのです。そこで、まず外務省に働きかけ、解決へ向けた日本と韓国の直接の協力プロジェクト(日韓両赤十字共同事業体)をつくり、役人の知恵を引き出し、さらに予算を用意して、サハリンと韓国の月1回のチャーター便で故郷訪問・家族再会が組織的に実現したのです。
サハリンの残留者も日本におけるこのような働きを感じ取っているようでした。それ故、この集会ではときには拍手をし、にこやかな表情で期待を伝えていたのです。それまでの戦後45年間、耐え抜いた後の希望を抱かせる笑顔でした。その後、日本政府も93年8月には細川政権が誕生し、議員懇の事務局長の五十嵐広三さんが閣僚に入り、さらに94年からは村山内閣の官房長官となったのです。その結果、家族再会と一時帰国(延べ1万8000人)から個別的永住帰国、そして集団的永住帰国(4000人)が実現するようになり、2000年にはソウル市南方の安山市に1000人収容の永住施設(アパート8棟)が建設されるに至ったのです。この写真は私にとってそのような期待を引き受けて、歴史を作り上げる過程のひとつの光景を表しているものです。