私が出会った在日1世~三千里の人々➂ 安部柱司

「くじゃく亭」経営者・高淳日とは
日付: 2025年06月24日 11時04分

 済州島で生まれ、幼い時期に渡日し、高淳日は16歳で日本の敗戦を迎えている。両親は済州島へ帰る意志だったが、高淳日は留まることを強く主張した、と私に語った。金達寿が『季刊 三千里』誌を舞台に、NHKへ朝鮮語講座の開設を要望する運動を始める時に紹介されている。そして『くじゃく亭通信』紙は、1976年秋に創刊しているから、高淳日を40代半ばで知ったことになる。東急本店横側に画廊喫茶ピーコックと、渋谷駅とNHK本館の中間に朝鮮料理店の「くじゃく亭」を経営していた。在日の商工人であった。
その「くじゃく亭」で田舎の小・中学校時代を通して友人であった須山正広君と再会を果たした。須山正広君はNHKに勤務しており、食事のため知人と来店していた。十数年ぶりの再会であった。須山君はすっかりというか見事な光頭になっていた。頭髪が消えていることに驚いたが、須山君が食事を取っていることからもNHKの職員の通う朝鮮料理店だと理解した。
須山正広君は高校進学時から隣の村へ越していた。隣村には五島列島からの出村が存在していた。瀬戸内海の西部、周防灘の春先はイカ漁で賑わった。五島列島からイカ釣りに出かけてきていた。「くじゃく亭」で、須山正広君に出会ったことが、一つの契機として五島列島と済州島との関わりに関心を持った。
書架に、『有明海の漁撈習俗』、大正5年刊行の『佐賀県漁村調査報告』などを積んでいる。長崎県、福岡県、熊本県の漁業調査に関する書籍はそれなりに集めた。済州島研究から九州の漁業に通じた。有明海の漁業では海面漁業権が成立していて済州島漁民の漁業の場にならないはずであった。だが、海底の漁業は自由であった。済州島の人は、海面漁業権の確立していない海底に着目した。
済州島漁民は明治に入るや、九州へ進出して容易に潜った。日本の海女にくらべて息継ぎの方法で済州島の海女の方が長く潜れたと言われている。済州島の漁民は有明海の水深、およそ20メートルと言われていたが潜り、タイラガイを採取した。
私の済州島研究が日本産業史研究の一環になったのは、有明海沿岸の済州島漁民の出村を調べたことが発端であった。それは日本のサルベージ業が済州島漁民の出村から起こっている、という資料を見つけたことに起因する。「サルベージ」とは、海難救助、沈没船などの引き上げ作業だと辞書にある。そしてサルベージ業とは港湾建設を主とする事業であった。そのサルベージ業の日本における出発点が済州島漁民の有明海沿岸の出村であった。海中作業は済州島漁民のお得意であったのだ。ほとんどの日本人に知られていない済州島人の日本産業史に果たした役割を調査することに対し、高淳日は全面的な支援を快諾した。
日本近代史における済州島人の果たした役割の調査に熱を上げていた私の頭を冷やしたのは、一に佐藤勝巳であった。佐藤勝巳は暴力団員を殺傷して寸又峡に立て籠もった金嬉老の裁判闘争に金達寿などと共に取り組んでいる。金嬉老は警察官の朝鮮人差別を糾弾する声を挙げた。それは佐藤勝巳と金達寿が、金嬉老の朝鮮人差別を糾弾する言葉への反応から、52年の「日本共産党の対警察活動について」という通達文から理解された。あのとき、佐藤勝巳は金達寿の同志であった。その佐藤勝巳が「高淳日は対日工作員だと知って、手を組んでいるのか?」と、問いかけてきた。私の背筋は、ゾクッと反応した。70年代は、北朝鮮を見る日本社会の環境には大きな渦が巻いていた。その渦に、私は巻き込まれていたのだ。


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