李薫の「家族の肖像」 第1回

祖父 李熙健、最期の言葉は「頼むわ」
日付: 2025年06月21日 02時58分

私、李薫(イフン自身は「なんでもない」人間である。しかし「なんでもない」私は「とんでもない」人たちに囲まれて育った。愛する「とんでもない」人たちは時には豪快で、時には繊細な「武勇伝」を残し、この世から天国へと旅立った。

祖父李熙健(新韓銀行名誉会長)、外祖父徐甲虎(邦林紡績株式会社創業・駐日韓国大使館寄贈)、父李勝載(新韓総合研究所所長)

たくさんの色鮮やかな思い出があったのに、私の記憶の容量がオーバーしてか、新しい思い出が「貯蔵」されると昔の思い出が押し出されて「セピア色」になっている危機的状況にある。

「記憶」を「記録」して繋げたい。「在日コリアン」の流れをくむ未来の子供達に。

祖父 李熙健(新韓銀行創立者)と私、李薫

祖父:李熙健(1917-2011

 

祖父の最期の言葉は「頼むわ」だった。何を「頼むわ」かは、未だに謎である。

 

1)祖父とダイニングテーブル

祖父の朝は極めて規則正しかった。六時に起きてラジオ体操。首をぐるぐる回し、背筋を伸ばして「タッタカター」と足踏み。足が悪くなるまで祖父の朝はラジオ体操で始まった。

それが終わると、きれいに髭を剃り、髪を整え、ダイニングルームに現れる。祖母が健在だった時は向かいの空き地で摘んだ蓬の入ったジュースを出していたが、その後、空き地もすっかり様変わりし、それからはりんごとセロリの健康ジュースで朝ご飯がスタート。野菜を炊いたものに、日替わりでコーンスープと蒸しパン、またはシジミの味噌汁とご飯。

北欧のどこかの国から取り寄せたという木製の大きなダイニングテーブルで、祖父の〈生きた現代史講座〉が開かれた。大変熱心な生徒であった私はいつも〈モントングリ〉(大馬鹿者)と呼ばれる始末であったが、壮大な祖父のヒストリーにはいつも驚かされるばかりだった。

50年以上にも亘り、家族の団欒の中心で、最も忠実な聞き手であったダイニングテーブルは今も健在である。

祖父はそのダイニングテーブルで食事を取りながら、大きな窓から見える中庭とその向こうの眺めを楽しんでいた。蒸し暑い夏でもその窓から、夕方には涼しい風が入り、祖父の舌の滑りがよくなった。食後のデザートに大好物のメロンが出た日は上機嫌で、さらに饒舌になった。

ハラハラドキドキの〈李熙健冒険物語〉の中でも度々登場したのが〈尊敬するジョン・F・ケネディのお墓参り〉の巻だった。ジョン・F・ケネディ。祖父と同じ一九一七生まれのアメリカ大統領。アイルランド系で初のカトリック教徒の大統領。マイノリティで若いケネディ大統領に、祖父は憧れと希望を抱いていた。

彼が暗殺されて数年後、祖父は英語は全くできなかったが、なんと一人でお墓参りにアーリントン墓地に行った。冒険のクライマックスは、どうにかお墓参りを済ませた後のタクシー運転手とのやりとりだった。

「リンカーンホテルまで行ってくれって言うのが全く通じなかったんや。『リンカーン、リーンカーン、リンカン』。リンカーンて発音が難しいんや。しまいになったら運転手が怒って車のトランクを開けてスーツケースを放り出したんや。

そしたらな、スーツケースに、前に泊まった時にもらったリンカーンホテルのシールが貼ってあったんや。それで運転手に『ヘイ、ドライバー!リンカーン、リンカーン!』ってな。」ポンとダイニングテーブルを叩きながら、誇らしげに「そしたら、運転手が『OK!』って放り投げたスーツケースをトランクに入れてホテルまで連れてってくれたんや」と。

祖父はこの後で当時アメリカンフットボール部に所属していた大学生の息子、つまり私の父のためにヘルメットを買うという難易度の高い挑戦をし、これまた大変な苦労をしたという話もしてくれた。祖父は大変家族思いの人だった。


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