新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第84回 伴野麓

日付: 2025年06月18日 07時53分

 仁徳朝は和珥氏族を排斥、つまり菟道若郎子(和珥氏族勢力)との覇権闘争に勝利して、沸流百済が名実ともに倭地の主人公になったことを暗喩する。だが、河内の高津宮を都城とした。大和ではなかったということだ。つまり大和王朝畿内説は”幻の大和王朝”を拡大再生産する空理空論というものだ。
伊藤博文らの偽史シンジケートは、黒板勝美、今西竜らの御用学者を動員し、軍部も大いに関与して、韓半島の全史料の掠奪を計画し、また『日本書紀』の内容まで改竄したことを紹介した。
仁徳を継いだ履中は、住吉仲の謀反に遭遇し、太子宮を焼かれて河内国の埴生坂に逃れ、そこから燃え盛る難波の太子宮を望み見た。履中の逃亡は、和珥氏族らの新羅系山陰王朝勢力の激しい巻き返しによるものだが、反正朝に代わる。反正の宮居も河内の丹比柴籬宮であった。
反正朝から允恭朝へと続くが、允恭朝の実権は忍坂大中姫のカカア天下で、弓月王グループの勢力が後ろ盾であったろうことを明らかにした。安康朝は、血なまぐさい暗殺事件で覆われ、無政府状態であったと思われる。雄略朝は、一転して強権政治になったようだが、雄略の背後に百済昆支王の影が見え隠れすることから、百済系王朝が復活したと考えられる。
追放された新羅系山陰王朝は、清寧朝や顕宗朝、仁賢朝で巻き返しを図ったが、顕宗や仁賢は、百済武寧王と同一人物という説もあり、大和朝廷が実在したかどうかも怪しくなってくる。換言すれば、”幻の大和朝廷”を造り出した虚構の古代史がまかり通っているということだ。
武烈の暴虐譚は朝廷混乱の極大化であることを述べたが、武烈朝に大王・太子・王子がみな死んだという「百済記」の記事もある。そこで登場したのが、応神5世孫とされる継体だ。
継体にはアマノヒボコ族の息吹が感じられることを明らかにしたが、九州で磐井の反乱が起きた。それは、九州に一大王朝があった表れとも見られており、全国統一の巨大な大和朝廷は”幻”であることを暗喩するものだ。

大和朝廷はあってもなきがごときの混乱続く

垂仁朝は丹波に比重が大きく、景行朝の故事は大和に縁が薄いもので、近江高穴穂宮で没したとしている。景行の片割れのようなヤマトタケル(日本武尊)の故事も九州や東国が主舞台で、大和は添え物のような感じだった。
成務朝は武内宿禰王朝の傀儡であったことを明らかにしたが、武内宿禰の故事は因幡や紀伊国にあって、大和には腰を落ちつけていない。続く仲哀朝だが、主舞台は長門で、神功朝も敦賀から長門へと移る。また神功の”三韓征伐”譚はデタラメ譚と指弾されている。
そして応神朝だが、この時期に沸流百済が大和に侵寇して、百済系大和王朝をデッチ上げたと考えられるのだが、応神朝、仁徳朝の宮居はいずれも河内難波であった。


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