フランス側と交渉が進行中、李景瑞博士は他の用事で、米国に出張した。LAで、ある同胞からロッキード社が推進剤施設を売却しようとするのに、中々売れないという話を聞いた。李博士は直ちにフランスに電話してSNPE社との交渉を一旦中断させ、ロッキード社の担当者に連絡し売却意向を確認した。ロッキード社も厳しい経営難に陥っていた。李博士はロッキード社に無条件購入したいと通知、米国務省の輸出許可はロッキード社が解決するようにと言った。ロッキード社は国務省の許可を自社が得ることにし、全ての施設の売却に合意した。施設と設備の価格は約200万ドルだった。
当時の韓国経済の規模や官僚組織環境から200万ドル規模の契約は当然、国防科学研究所長の承認はもちろん、大統領にも報告せねばならない事案だった。さらに外貨100万ドル以上が払われる海外購買契約は、韓国銀行総裁の決裁が必要だった。通常の手続きでは、推進剤生産装置の確保は不可能だった。
ところで、朴正煕大統領がミサイル開発に関しては李景瑞博士に全権を与えていた。責任者である李博士が当該技術の重要性と購入機会の切迫性を最もよく知っていたので、誰とも相談せずに現場で独断的な決定を行うことが可能だった。
米国務省は、「技術の提供は絶対不可で、施設や装備のみの売却」を条件に承認した。国防科学研究所はその後、フランスのSNPE社の推進剤技術の移転を段階化、1段階では100万ドルで推進剤製造技術をすべて授かり、2段階で、2000万ドルで25ガロンの試製ミキサーを購入すると契約した。だが、1段階で技術を伝授された後、2段階の契約へと進めなかった。購入する外貨資金がないうえ、ミキサーが小さすぎて使えないという理由をつけた。
国防科学研究所は技術者たちをロッキード社の推進剤工場に派遣し、すべての設備と治工具一つまで全部船で運んできた。300ガロンのミサイル推進剤用のミキサーを確保した。その後はいくら推進剤ミキサーを追加購入しようとしても、1世代が経っても米国の輸出許可制にかかって導入できなかった。韓国は偶然1度だけ訪れてきた機会を逃さなかったのだ。天佑神助で朴大統領が開発責任者を信じ全権を与えたので可能だった。韓国はミサイル独自開発に欠かせない設計技術と推進剤製造技術を確保できた。
絶妙にも、フランスは技術は提供できるが設備はできないと言い、米国は施設と設備は販売するが技術はできないという状況で、フランスの技術と米国の設備を組み合わせて完成技術を確保したのだ。まだ慣性航法装置(INS)技術は確保していないが、当時、開発中のナイキ・ハーキュリーズは無線周波数指令誘導方式だったので、INSなしで開発できた。国防科学研究所傘下の大徳機械廠に航空事業部が独立機構として正式発足した。
国防科学研究所のミサイル開発戦略は、地対空ミサイルのナイキ・ハーキュリーズ(NH)ミサイルを地対地ミサイルに改造することだった。NHは2段固体推進機関だったが、1段の推進機関は4つの小さな推進機関がクラスターの形で束ねられていた。誘導方式は2つのレーダーで、敵のミサイルとわがミサイルを追跡、飛行中のわがミサイルに操縦命令を伝える指令誘導方式だった。NHは地対空ミサイルだが、必要なときは長距離の虚空に仮想目標を設定、誘導して仮想目標付近で地上に下降、地上の目標を打撃する地対地のオプションがあった。
(つづく)