韓国空軍が運用していた長距離地対空ミサイルのナイキ・ハーキュリーズ(NH)の元開発者である米国のマクドネル・ダグラス社は1975年春、国防科学研究所にナイキ・ハーキュリーズを地対地ミサイルに改造、射程210キロメートルに延長する提案を持ってきた。
事実、国防科学研究所はナイキ・ハーキュリーズを基本として地対地ミサイルを模倣開発しようとしていた。当時、米国の防衛産業は極度の不況に陥って、マクドネル・ダグラス社も倒産直前の経営難で、海外で活路を探していた。マクドネル・ダグラス社はナイキ・ハーキュリーズを射程距離240キロメートルの地対地ミサイルに改造できる設計を施すと提案した。
国防科学研究所はすぐ承諾した。ただ、予備設計は共同で行うが、次の2~3段階目に当たる本設計は、マクドネル・ダグラス社が専担すると条件を少し変更した。マクドネル・ダグラス社は韓国側の提案を受け入れ、予備設計180万ドル、本設計2000万ドルで契約、米国防部と国務部の承認を得た。米政府は、技術移転はせず、設計だけを提供するというから、深く考えず、設計販売の許可をした。
国防科学研究所の李景瑞博士など15人が米国に行き、マクドネル・ダグラス社の研究員20人と一緒に予備設計の共同研究に参加した。この研究を通じて風洞実験資料、誘導操縦資料などミサイル設計や開発技術に関する秘密資料をほとんど見ることができた。共同研究だったため、ナイキ・ハーキュリーズに関する技術資料をすべて見られる大義名分があり、マクドネル・ダグラス社の研究員たちは活発に技術討議をしてくれた。
国防科学研究所の研究員たちは複写機を宿舎に置き、必要な資料をコピーした。このようにして設計技術の大部分を確保することができた。予備設計段階の共同研究が終わり、マクドネル・ダグラス社に派遣された研究員たちが76年帰国した。国防科学研究所はこれまで習得した技術力でミサイルの独自設計が可能との結論を下した。ADDは予算がないという理由で、マクドネル・ダグラス社との本設計契約(2000万ドル)はそれ以上進めなかった。
誘導弾開発計画に対する朴正煕大統領の最終裁可(74年5月)後、やっと研究試験及び生産施設を確保、本格的に誘導弾開発に着手した。ミサイルを研究・製作する大田機械廠が76年、忠清南道大德に設立された。ミサイル性能を試験・評価する安興試験飛行場も77年に完工した。
ミサイル独自開発のもう一つの課題は推進剤だった。ミサイル設計段階で推進剤として液体燃料にするか固体燃料を使用するかを決定せねばならなかった。液体燃料は、価格は安いものの発射の前に長時間燃料を注入せねばならない。固体燃料は必要なとき直ちに発射できる。空軍はミサイル作戦運用計画により非常の際にすぐ発射できるミサイルを望んだ。それで推進剤は固体燃料に決まった。
だが、韓国には推進剤の製造技術と設備がなかった。当時、ミサイル推進剤(固体燃料)製造に必要な容量300ガロンのミキサー装備は、米国だけが持っていた。フランスは容量50ガロンのミキサー装備を持っていた。米国の固体燃料ミキサー製造社と購入を合意しても米国防部が承認するはずがないため、米国から購入できなかった。やむを得ずフランスの火薬推進剤会社のSNPE社と接触し推進剤の製造技術の伝授と原料や装備の販売を要請した。SNPE社は、技術は伝授できるが設備は販売できず、25ガロンの小型試製品は提供できると言い、2000万ドルを要求した。
(つづく)