ソウルを東京に擬える第40回

ソウルと東京 町並みの違いはなぜ表れるのか
日付: 2025年06月04日 11時20分

 これまでソウルと東京の類似性を見出してきたが、ソウル特別市と東京23区の発展の流れには違いが見られる。現在の東京23区の範囲は、明治期半ばまでには固まっていたが、ソウル25区は約50年前のことだ。詳述すると、東京に初めて区が置かれたのは、明治政府による1878年の郡区町村編制法であり、当時の東京は15区6郡だった。これが今の23区の範囲に近い。ソウルの区制は1943年に始まったが、その時に漢江を跨いで存在した区は、駅周辺にビール工場や製粉工場など大工場が多かった永登浦区であった。現在の江南がソウルに編入したのは63年であり、73年にようやく現在のソウル市の範囲ほどに固まり、その後は分離しながら、25区まで増えていった。
ソウルは朝鮮戦争を経て、人口が増え続けたことにより、都市機能を分散させようと計画的に「江南開発」が始まった。永登浦の東にあたる場所であることから、当初は「永東開発」という名称だった。60年代には漢江にかかる橋は少なく、人々は渡し船で移動していた。また夏季には遊泳したり、冬季にはスケートや釣りを楽しんでいたようだ。66年に漢南大橋が完成して以来、江南の開発が本格的に始まったが、それ以前の江南は田畑が多い近郊の農業地帯であった。韓国で2016年に刊行された『江南の誕生』には、狎鴎亭には梨の果樹園があり、瑞草洞では花卉を栽培していたという、今では想像し難い記述がある。前者は開発されたのちに漢江沿いのアパート開発の影響で、富裕な若者が集う場所となり、後者は尹錫悦前大統領の私邸などがある韓国屈指の高級住宅街として邸宅が並んでいる。江南といえば、歌手PSYのヒット曲「江南スタイル」により、世界的に有名になったが、昨今のソウルの洗練された街並みは、この地に象徴されるといえよう。半世紀で地価は数十倍、数百倍にも跳ね上がり、長年の土地所有者からは固定資産税の負担が膨大になったという話も聞く。江北よりも江南の地価が上昇したのは、北韓の侵攻から逃れたい心理的な要因もあったようだ。現在、江南と呼ばれる地域は主に江南・瑞草・松坡の3区で、これに江東を加えると4区となる。誕生してから半世紀余りの”カンナム”は、新しい街並みのなかで、昼はビジネス街、夜はナイトスポットが見られ、富裕なイメージの町だけに美容整形外科も数多くある。
両都市の朝鮮時代や江戸時代の名残はさておき、もし近現代に目を向けるならば、150年ほど前に範囲が定まった東京23区のほうが、傾向としてはソウルよりも旧来の雰囲気を感じる。東京のなかで、レトロで郷愁に浸れる代表的な場所は、戦後の闇市がもとになった路地が挙げられる。都心なら新宿の思い出横丁や渋谷の”のんべい横丁”、都心から少し離れると、中野駅や京成立石駅周辺にもそうした名残が見られる。また東京から郊外にかけては、私鉄による沿線開発が特徴的であり、23区内では東急線は大正時代に大田区の田園調布、東武線では昭和初期に板橋区のときわ台が宅地開発として分譲され、高級住宅街としてのブランド化に成功している。そういった点を見ると、政府が主導で行ったソウル・江南の開発とは大きな違いがあるといえるだろう。
ソウルのダイナミズムは、町の移り変わりの速さにある。古い街を一気に破壊するかのごとく、ドラスティックな再開発を行う傾向を感じる。再建築に関しても40年から30年へと短縮される流れすらあるという。もし両都市の姿に本質的な違いを見出そうとするならば、法整備や都市計画だけでなく、民族性や文化的な気質の差もそこに表れるはずだ。我ながら韓国への探求心は尽きることがなさそうだ。
〈おわり〉

開発が始まった当初は田畑が広がる田園地帯だった江南駅周辺の居酒屋街

 

 

 

 

 

 

 

 

戦後の闇市の名残がみられる中野駅周辺の居酒屋街


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