京王線始発の新宿駅から一つ目の駅に「初台」がある。その京王線初台駅から徒歩2分の場所に東京工業試験所が存在していた。関東大震災前から存在していた。渋谷区本町一丁目一番地である。1979年夏に、東京工業試験所はそこから追い出されて茨城県へ移転した。
私は61年に入所した。翌年に金達寿を知る。やがて金達寿の「日本の中の朝鮮文化の旅」に同行するようになる。そして70年代に入ると、『季刊 三千里』誌の販売を手伝ってほしいとの金達寿の嘆願をまともに受け、都内の主要な書店回りをする。本屋に赴き、店員に『季刊 三千里』誌を店頭に置いてもらえるよう依頼したのである。渋谷の大盛堂の舩坂弘社長とは、その時に知り合った。不思議と舩坂弘社長に可愛がられ、社長室に招かれた。社長室はビルの最上階にあり、そこから眼下のスクランブル交差点を二人して眺めた。当時の私は、舩坂弘社長が三島由紀夫の剣道仲間などという知識もなく、もっぱら南方での戦争の話を聞かされた。
当時の住宅は東久留米の公務員住宅であった。一銭の交通費も貰わずに、都内の書店回りをしている。もっぱら地下鉄を使用した。だから、交通費を三千里社へ請求していない。当時は健脚を誇っていたので、大盛堂には初台から坂を下って行った。その途中に東急百貨店の本店があった。東急本店と通りを隔てて、ピーコックという喫茶店があった。画廊喫茶・ピーコックの経営者が高淳日であった。舩坂弘社長は飛び入りで私が築いた知人であったが、ピーコックの店主の高淳日は、金達寿の紹介である。喫茶店でのコーヒー代は無料であった。だから、よく通ったのである。ピーコックで知り合った人物に朴慶植がいる。朴慶植は国東半島の出であった。私の故郷と近く、朴慶植の育った村を知っていたので、話が合った。
高淳日は画廊喫茶ピーコックの他に、渋谷駅とNHK本館の中間に朝鮮料理店の「くじゃく亭」を経営していた。NHKの本館に近い立地は、NHKの職員の通う朝鮮料理店となっていた。私はピーコックで無料のコーヒーを飲むだけでなく、くじゃく亭で、時に夕食を振る舞われた。
ただほど高いモノはない。そこで胸の痛みから、店を宣伝する方法を提案することとなった。それは私の済州島研究の発表の場にしたい思惑を含めた提案であった。高淳日は済州島の人であったから、容易に同意してくれた。私の済州島研究は、日本産業史研究の一環でもあった。私の仕事、東京工業試験所での業務は「公害処理対策」であった。だから研究のために「社史」や「地方史」に目を通していた。そのことが金達寿の「日本の中の朝鮮文化の旅」に同行する一助ともなった。その過程で、ほとんどの日本人に知られていない産業、済州島人の開いた産業を知り得た。その産業の恩恵を日本人は受けている。高淳日は済州島人の日本産業史に果たした役割を発表する舞台として、『くじゃく亭通信』の発行に快く同意した。
今、その『くじゃく亭通信』は、『始作折半』に収録されているから、大きな図書館へ行けば読むことが可能であろう。高淳日は幾つかの図書館へ寄贈している。
高淳日編著の『始作折半』が三一書房から2014年に刊行されている。本の副題が「合本くじゃく亭通信 青丘通信」である。安部弘記主筆で『くじゃく亭通信』の創刊号は1976年11月18日に発行された。2号は12月に出されているから、月刊であった。わずか4ページの通信誌であった。通産省の職員であったので、「安部弘記」という筆名を用いた。