私が出会った在日1世~ハングル講座開設に尽くした徐彩源⑥ 安部柱司

標準語とは 平壌文化語との闘い
日付: 2025年04月30日 11時49分

 金達寿とは、”雑誌を作る話し合いの席上が初対面だった”そうである。呉貴星の娘婿の李進煕が仲立ちしたのである。徐彩源の年譜に「1973年6月、三千里社設立に参画。『季刊三千里』の刊行準備」と記載されている。
私は60年代の終わりから金達寿の「日本の中の朝鮮文化」の仕事を手伝う中で、朝鮮語知識の必要性を感じる。そこで日朝協会の朝鮮語教室へ通う。金達寿は朝鮮語に興味を抱いている私に平壌文化語の話をした。朝鮮総聯の金炳植副議長が平壌文化語を朝鮮学校へ導入しようとする。金炳植の講演会へ聞きに行って来い、とアドバイスを受ける。
韓国で使われている言葉は朝鮮総督府が主導した「標準語」だと、金炳植は説き、平壌文化語こそ朝鮮民族が主体的に作った標準語だと力説した。
説得力を感じて金達寿に報告すると、社会党の佐々木更三委員長のズーズー弁は大衆に受けている。だからと言って日本人の誰もがズーズー弁を標準語にしようなどと考えないだろう。金日成の演説は説得力があり、親しみやすい。だからと言って金日成の話す言葉を標準語にするのか。平壌周辺は日本で言えば仙台に当たる。あの地域の言葉はズーズー弁なのだ、と金達寿は説明した。
徐彩源は平壌文化語の民族教育への採用に疑問を持ち、金達寿の動きに賛同する。それは徐彩源の受けた教育から理解される。
徐彩源は公立普通学校の教育を受けている。宇垣一成総督時代に、朝鮮全体で普通学校は二千百校も存在した。その普通学校へ通っていた人数は2割に満たなかった。その2割の中に徐彩源は入っている。
徐彩源が教育を受けた朝鮮語は、中枢院が朝鮮人学者を総動員した朝鮮語辞典に基づいている。この朝鮮語辞典は1920年に完成する。
公立普通学校での教育は「この時代までは、語学者の周到な研究の結果に基づいて、現代京城語を標準として、発音綴字法などが統一純化された朝鮮語の教育が行われ、教育の普及と共に、漸次学校で教育する朝鮮語が、朝鮮全域で行われるようになっていった」(『日本統治下の朝鮮における朝鮮語教育』16~17頁、友邦協会、1966年刊)。
徐彩源の年譜には「1946年4月、大阪生野区大友町にできた第4ウリ学校の教員になる」と記述されている。公立普通学校で2割しか学んでいない中での卒業生であったから、徐彩源は教えることを求められたのである。
徐彩源年譜の、
1961年11月、広島朝鮮学園中・高級部落成(建設委員)。
1962年2月、広島朝鮮学校第一初級学校落成。
1969年6月、広島朝鮮中・高級学校増築建設委員会の委員長となる。
との記載から、民族学校の教育現場へ、多額の寄付を行っていたことが推察される。徐彩源は自ら受けた教育から、民族教育はソウルの標準語で行われるものだと思っていた。その下地が平壌文化語に違和感を受けたのであろう。
そして、徐彩源はソウルの標準語、朝鮮語が日本社会に知られていないことにも気づき、金達寿の説く、NHKへ朝鮮語講座の開設を促す活動に共感する。
『季刊三千里』誌の刊行に徐彩源は多額の支援を惜しまなかった。1973年の徐彩源の決断が『季刊三千里』誌を基地とした運動となる。それを受けての、NHKの「ハングル講座開設」は1984年となる。使命を終えた『季刊三千里』誌は停刊する。
1987年9月18日、徐彩源は倒れる。享年66歳であった。


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