本紙に連載中の金永會氏の「万葉集物語」が回を重ねるごとに面白くなる。「郷歌制作法」で解読された万葉集は、古代史とその時代を生きた人々の様子を生々しく伝えている。日本では平安時代には九九が貴族たちの教養とされたという。ところが、今週の万葉集イヤギ(이야기)では日本最古の九九の記録が確認できたという驚くべき話を紹介する。九九は、まず万葉集の27番歌と40番歌で現れた。
万葉集は、人類文化遺産としての敍事を超え、古代への探検の手がかりや貴重な洞察を子孫たちに残している。これから古代史の謎や空白を埋めてくれる数々の事実が万葉集を通じて明らかになると期待される。ところで、今まで日本で史書や考古学的研究を通じてだいたいのことが分かっている数学、特に九九の最も古い根拠が見つかった。しかも天武天皇の歌からそれが確認できたことは、万葉集の研究において記念碑的な出来事の一つと言えよう。
奈良文化財研究所は昨年9月、約1300年前に作られた藤原京の跡からの木簡に対する追加分析の結果、九九の乗算式が見つかったと発表した。2001年に出土した、木簡3つを調べたら、5行8段にわたる九九表の右上の隅であることが分かったという。
長さ16センチほど、幅1センチほどの木簡に書かれた3か所の数字について最新の赤外線写真で確認できた部分も含め上から「九々八十一(くくはちじゅういち)」「四九卅六(しくさんじゅうろく)」「六八【※40】八(ろくはしじゅうはち)」となっていることがわかったという。また「木簡の元の長さは約30㎝と考えられ、複数の木簡に九九全体を記録した可能性がある」と言い、「木簡は今まで日本で発掘された九九一覧表の中で行数が最も多い」、「韓国や中国から出てきた古代木簡には九九の行数をもっと記録したものもあるが、日本では少ない」と付け加えた。
奈良文化財研究所の桑田訓也主任研究員は、木簡の内容や見つかった場所から役所で使われるような実用的な一覧表の一部と考えられ、国内最古級だと言った。「当時は文書行政が導入されて物や人を数える場面が多くあり、役所に置かれていたか壁に掛けられて使われていたのではないか。古代の日本人が九九とどうつきあっていたのか解き明かすきっかけになればいいと思う」とも話した。奈良文化財研究所は2010年12月にも平城宮の跡の発掘で九九の木簡を発見したと発表した。
では、万葉集の27番歌と40番歌で詠われた九九を見てみましょう。まず、27番歌が作られたのは678年、40番歌は692年に作られたから、共に藤原京への遷都の前だ。藤原京への遷都は持統天皇のときの694年12月で、次に平城宮へ遷都(710年)するまで持統、文武、元明天皇が3代にわたって居住したという。
27番歌に現れた九九
27番歌は、天武天皇が娘の十市皇女が亡くなったとき(678年)作った涙歌だ。
原文は「淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見<与> 良人四来三」
従来の解釈は <昔、立派だった人が良い所だといってこの吉野をよく見た。今の賢人よ、お前達も良く見るのだ>
郷歌制作法での解読は<清い人であれ。(亡くなった先人たちの)足跡を見るのを好むようにと(いつも)言う先生(だった)。野原で(冥土の使者たちが来るのが)見えるよ。冥土の使者12人が来るね。>
最後の句が、人四來三だ。四×三は、四×三=十二に解読される。
人は「冥土の使者」と解読し、來は「来る」とになる。
「冥土の使者12人が十市皇女を迎えに来る」と解読される。
天武天皇の万葉集27番歌は、飛鳥が都のとき、つまり藤原京への遷都の前だ。今としては考古学で確認されたどれより早い、日本最古の九九だ。これを天皇が詠んだのだ。
40番歌に登場する九九
万葉集40番歌は持統天皇の息子・草壁皇子が亡くなったときの涙歌だ。持統天皇が692年3月、伊勢国へ行ったとき遂行した万葉の歌皇・枾本人麿が作った。40番歌の最後の句は須十二四寶三都良武香だ。
(ひげを伸ばした臣下は草壁皇子の魂に)12個単位の錢幣を(納めた)と解読される。
須は髭の略字だ。
十二四寶三は12=4×3と解かれる。完璧な九九が出たのだ。
韓半島の百済の九九の木簡からも三四十二が出てくる。
百済時代の出土品からの九九
一方、古代日本と言葉と表記法を共有していた韓半島の百済の都の遺跡からも、九九表の木簡が出土した。2011年、百済の都だった泗沘城(現在の忠南扶餘郡雙北里)の跡から木簡が発掘された=写真。長さ30.1cm、幅5.5cm厚さ1.4cmだった。韓国木簡学会など専門家らが赤外線撮影など精密判読の結果2016年、九九表であると確定した。
9から2まで順に記録されていた。段の間に横線を引いてあった。同一数字を避けるために繰り返し符号(")を使用した。1段は省略していた。重複する計算が省略されるため、下に行くほど減っていた。
百済の九九表の4段を見ると、万葉集27番歌と同じ三四十二(3×4=12)が記されている。百済の九九表は、泗沘城が新羅・唐の連合軍に陥落した660年の前のものだ。
万葉集の研究者たちはもちろん、古代史研究者たちや遺跡を発掘する考古学者たちは、金永會氏の万葉集の解読とその新しい結果に注目して欲しい。若いときから戦場を走り、権力闘争や血なまぐさい「壬申の乱」を勝ち抜いて即位した天武天皇が、(基礎教養として)九九も学んでいたことが万葉集の27番歌を通じて分かっただけでも、古代史がもう少し身近になってくるような気がする。
万葉集の新しい解読と考古学などとの協業が、古代史の研究をより豊かにする新紀元を開く可能性が見られる。挑戦すべきではないだろうか。(2025年4月23日)