幻の大和朝廷第76回

日付: 2025年04月08日 11時41分

 顕宗という諡号は、宗(正統)を顕すと解釈できるから、正当な王朝を再興したということになる。それは、アマノヒボコ王朝、すなわち新羅系山陰王朝ということになる。顕宗朝を、履中朝の再興と見る説もあるのだが、母系の血筋を見れば、顕宗も履中も葛城の葦田宿禰に繋がり、葦田宿禰はアマノヒボコ族に繋がる人物であったから結局、母系からみれば、アマノヒボコ王朝の再興ということになる。
ところで、弥生人は縄文人に従属した形で存在したのではなく、縄文人を駆逐して新たな文化をもたらした人たちであり、それは韓地から渡来したものであり、当然ながら言語も韓地からもたらされたものということは、しごく明瞭なことだ。つまり、倭(日本)語は韓語から転訛したものだといえる。
日本史学界は『記・紀』と矛盾すれば誤写・誤脱論をふりかざして悪意に修正し、『記・紀』に合わなければ古史料も退けると指摘されているが、『帝王編年紀』や『扶桑略記』は『記・紀』の虚構を暴露しているという。
とまれ、清寧朝の内乱は、新羅系山陰王朝と百済系大和王朝の覇権闘争であり、正当性を問う戦いであったが、結局は新羅系山陰王朝系の顕宗が勝ち残ったことにより、アマノヒボコ王朝が再興されたという形になった。

〔仁賢紀〕

丹後・赤石・石上は銅器文化で繋がる地

意祁(仁賢)・袁祁(顕宗)はアマノヒボコに通じる名称であることを明らかにした。それは、彦坐王とアマノヒボコ(天日槍・天日矛)とが同人(神)格であるということから導き出された結果だ。とはいえ、それは母系の面からいえることで、父系の面からは沸流百済系の大王であることに間違いはないと思われる。
アマノヒボコ王朝は銅器文化の新羅系山陰王朝の核心勢力と考えられ、石上神宮は、その銅器文化の聖地であったと考えられる。意祁(仁賢)・袁祁(顕宗)の伝承と深く関わる丹後・赤石・石上は銅器文化で繋がる地であった。
ところが、沸流百済の大和侵寇により百済系大和王朝が樹立されて以後、銅器文化の地は、沸流百済によって凌辱された。それに対して必死に抵抗した様子を伝えるのが、意祁(仁賢)・袁祁(顕宗)の伝承だと考えられる。 


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