姜在彦が朝鮮総聯の組織と距離を置く1968年から、『季刊三千里』誌の発行の準備が始まる73年の間の5年間が在日世界の分岐点であった。
2025年現在、在日で「朝鮮籍」を探すのは難儀である。それに各地に林立していた「朝鮮学校」も多くが閉鎖されている。朝鮮大学の副学長など民族教育に尽くされた申在均博士が横浜市鶴見区の朝鮮人集落を指して「あそこはキョンサンドータウンです。一番故郷の匂いがしたところですよ」と、私に行くことを勧めて下さった鶴見区コリアタウンも民族学校跡地は更地になっていた。
在日コリアンの数が減少したわけではない。日本籍を求める人々は増えても、新たに韓国からこの列島へ移住してくる人々はいる。
極端に減少したのは「朝鮮籍」であり、朝鮮総聯の組織力である。その朝鮮総聯の組織力を減退させた人物に金炳植副議長の存在がある。世に知られる金炳植事件は、統一朝鮮新聞社が1973年に『「金炳植事件」その真相と背景』を刊行して日本社会へ知らせた。
同時代を生きた日本人として私が「金炳植事件」を知らされるのは、金達寿宅へ婦人組織が押しかけたことが端緒である。
金達寿は大きな声を発してデモ隊と対峙する。この在日婦人組織は、金達寿が日本語を駆使する作品、「日本の中の朝鮮文化」を問題にしていた。金達寿は、韓徳銖議長へ厳しい内容の電話を掛ける。
その後に韓徳銖議長宅の寝室に仕掛けられた盗聴器が発見される。発見したのは、宮本顕治宅に仕掛けられた盗聴器を発見した「会社」であった。個人的にその会社の従業員と私は親しかったので、発見の経緯を知っている。
金炳植副議長は吉祥寺の先生こと、玉城素師の友人であった。玉城素の尊父は玉城肇であり、戦前は武装闘争で知られる日共の委員長の田中清玄の友人でもあった。
敗戦後、金炳植は玉城肇宅へ転がり込んでくる。玉城肇は、金炳植を息子の玉城素が学んでいる仙台の旧制二高へ入れる。後年、朝鮮大学校の認可問題時に、美濃部都知事へ玉城肇は「あそこは後輩の金炳植君の運営している学校だから…」と声をかける。美濃部都知事は玉城肇の一年後輩だった。90年代だったか、金達寿が韓徳銖へ電話して、朝鮮総聯から金炳植を排除させた経緯を玉城素師から伺った。
金達寿は、朝鮮総聯が朝鮮学校の教育に平壌文化語を採用しようとする金炳植を排除すれば、問題は解決すると考えていた。だが、民族学校で平壌文化語を採用する方針は変わらなかった。北朝鮮が平壌文化語での統一を求めていたのだ。
例えば、渋谷の高淳日がNHKに朝鮮語講座の開設を呼び掛ける運動を起こすと、高淳日は北朝鮮の対日工作に加担していると『現代コリア』誌の発行人の佐藤勝巳が断じる。南相瓔の『NHK「ハングル講座」の成立過程にかんする研究』に、NHKがハングル講座の開設を始める契機に高淳日の『朝日新聞』紙「声欄」への投書が大きな役割を果たした、と評価しているが、佐藤勝巳は違う目で見ていた。
渋谷のNHK本館近くに高級な朝鮮料理店を開いて朝鮮語講座の開設運動を始めた高淳日の役割をそれなりに評価したのは、金達寿であった。徐彩源からの支援を受けた金達寿は、その高淳日の動きを包み込んでNHKへ朝鮮語講座の開設を促して行く。それは平壌文化語ではない、美しいソウルの言葉を民族教育の場へ衆智させるためであった。