徐彩源には自筆年譜が残されている。自筆年譜を読み解けば、そこに朝鮮総督府の教育制度から人生の第一歩を歩み始めた徐彩源の生涯が浮かびあがる。『季刊三千里』誌の発行を通じて「NHKに朝鮮語講座の開設を要望する会」を支えた徐彩源の志が伺える。
「NHKに朝鮮語講座の開設を要望する会」は、事務所を東京駅八重洲口のゴトー歯科に設けた。代表兼事務局長は、明朝活字の研究者である矢作勝美が務めた。そして事務局を運営させられたのは東京工業試験所勤務の私であった。私が事務局を任されたのは、通産省の労働運動の活動家にして、文学運動を通して金達寿の周辺にいたからである。
金達寿は、朝鮮総聯は朝鮮学校の教育に平壌文化語を採用する。在日子弟が、朝鮮語とは平壌文化語だと認識して育っていく。平壌文化語は朝鮮のズーズー弁である。社会党の佐々木更三委員長が使っている仙台のズーズー弁を、仙台文化語だと表現するに等しいと述べた。民族学校で平壌文化語を採用する。その結果、在日の子弟は美しいソウルの言葉を知らずに社会へ出て行く。在日の子弟に美しいソウルの言葉を知って貰うには、NHKで美しいソウルの言葉を流して貰いたい。在日の子弟に、朝鮮語の美しさを知って貰いたい、金達寿は述べた。
朝鮮総聯の平壌文化語教育へ対抗するために『季刊三千里』誌を、金達寿は徐彩源に説いて創刊する。『季刊三千里』誌の発行に合わせて日本の知識人へ、NHKに朝鮮語講座の開設を呼び掛ける支援を訴える。それに合わせて市民運動を金達寿は思い立つ。そこで私へ協力を求めて来たのであろう。ゴトー歯科の後藤直氏も、明朝活字の研究者の矢作勝美氏も同じ文学仲間であった。
南相瓔の『NHK「ハングル講座」の成立過程にかんする研究』に、『季刊三千里』誌と「NHKに朝鮮語講座の開設を要望する会」が相働いて朝鮮語講座の開設を迫った経緯が詳述されている。だが、徐彩源の果たした役割は記載されていない。徐彩源は、金達寿に民族教育における言葉の問題を説かれ、『季刊三千里』誌の刊行を支援する。『季刊三千里』誌はNHKへ朝鮮語講座の開設を促して行く。
徐彩源は『季刊三千里』メンバーを引率して1981年に訪韓する。それが一つの契機となってNHKは講座の開設へ向かう。84年にNHKにハングル講座が開設される。徐彩源はハングル講座の開設を見届けて、『季刊三千里』誌刊行の支援を止める。使命を果たした『季刊三千里』誌は50号をもって終刊する。
民族教育へ熱い情熱を注ぎ続けた生涯は自筆年譜から伝わってくる。21年1月18日に、父・徐順錫と母・姜二美の次男として出生する。兄の他に姉もいた。出生地は全羅南道昇州郡別良面元倉里新石69番地である。27年書堂に入る。伝統的な朝鮮民族の教育から第一歩が始まる。その翌年、28年4月に別良公立普通学校に入学する。朝鮮総督府の教育令による一面一校制に基づく小学校であった。日本でも、明治政府が村立小学校を全国に張り巡らせて行ったが、それを「併合」に伴って、朝鮮の面は日本の村に当たるので、一面一学校の設置を行い、朝鮮の伝統的教育である書堂を脇に追いやって行く。祖父は書堂での教育に拘ったが、父・徐順錫はあくまでも別良公立普通学校へ徐彩源を通わせ続けた。別良公立普通学校で受けた教育は渡日後の徐彩源を律している。
近代社会に出て行くには、美しいソウルの言葉を知ることが第一歩だったと自筆年譜は語っている。それは、平壌文化語による民族教育へ反発する金達寿と共有した認識であった。