幻の大和朝廷第67回

新解釈日本書紀(続)応神
日付: 2025年02月04日 12時12分

 葛城の朝妻と近江湖東の朝妻とは有縁であり、湖東の朝妻は息長氏本貫の地で、坂田郡に含まれることから、朝妻の地は息長氏由縁の地でもある。息長氏はアマノヒボコ(天日槍)とも有縁の氏族で、息長氏族は湖東に繁衍したのに対して、湖西に蟠踞したのは和珥(和邇)氏族だ。
反正は、和珥氏族に擁立されたことを明らかにしたが、允恭は弓月王グループ(秦氏族)の支援を受けたと見られ、妻の忍坂大中姫の野望によって大王に就任したことから、正妃となった忍坂大中姫の尻に敷かれた存在であったのだ。
『新撰姓氏録』によれば、朝津間の地は、応神朝に百済から127県の民を率いて渡来した弓月王が、金銀玉帛など種々の宝物を献上して賜った地であり、同じく〈大和国諸蕃〉に、朝妻造は韓国(からくに)人の都留使主の後であると記すから、朝津間(朝妻)の地は渡来人の多住地域であったと考えられる。それゆえに、允恭の母は弓月王の後裔氏族の女人という可能性もあることも明らかにした。
大和の朝津間と近江湖東の朝妻とは有縁の地であることを先に述べたが、允恭の正妃の忍坂大中姫は、アマノヒボコ(天日槍)の後裔氏族である息長氏族と深い関わり合いがあることも明らかにした。とまれ、群卿が会議をして、王統譜上優位であったろうとされる仁徳妃の日向髪長姫の子である大草香王と比べられた雄朝津間稚子宿禰こと允恭は、年齢が上、人格も仁孝であるということから推戴され、大王位についた。
その背後には新羅の支援があったろうとされる。『古事記』は允恭が天下を治めた時、「新羅の国王が調物の船81艘をたてまつった。その調の大使は名を金波鎮漢紀武と言った。その人が薬の処方をよく知っていたので、大王の病気を治した」としているからだ。
その新羅の影響があったことを隠すためだろうか、『日本書紀』は允恭2年条に新羅からよい医者が来たと記し、允恭42年条では「新羅の王は大王が亡くなったと聞いて驚き悲しんでたくさんの調の船に、多数の楽人をのせて奉った。この船が対馬に泊って大いに悲しみ泣いた。筑紫についてまた大いに泣いた。難波津に泊まってみな麻の白服を着た」と2回に分けて記している。
允恭擁立の背景には、和珥氏グループが推戴する大草香王と、忍坂大中姫・弓月王グループが推戴する允恭との覇権闘争があり、後者が勝利する結果になった。允恭の宮居とされる遠飛鳥は忍坂大中姫が主人公の地とみられており、允恭朝の実際の実権者は忍坂大中姫と見られるのだ。


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