住吉仲に味方したのが、阿曇連浜子に代表される安曇氏族であり、倭直吾子籠に代表される海部氏族であった。その海人系氏族は、仁徳朝を支えた主体勢力であったのだが、応神朝を支えた和珥氏族は、海人系氏族に敗北して仁徳朝の出現になったと考えられる。つまり、菟道稚郎子の敗北ということだ。
その菟道稚郎子の妹である八田姫の長子が、瑞歯別であったとすれば、その支援勢力は和珥氏族であったと考えられる。それゆえ、住吉仲と瑞歯別の大王位継承争いは、安曇・海部氏族勢力と和珥氏族勢力の争いであり、結果は和珥氏族が巻き返しに成功して、反正(瑞歯別)を即位させることができた。それは、反正が和珥氏系の女人を正妃にしていることからも傍証される。
住吉仲の謀反は、兄の去来穂別(履中)に対するものではなく、異腹の弟の瑞歯別(反正)に対するもので、それは安曇・海部氏族と和珥氏族との派遣闘争でもあった。
河内に降臨したニギハヤヒ(饒速日)は、大和に定着したと見られ、そのニギハヤヒと同人(神)格とされるのが、ホアカリ(火明)で、丹後海部氏の始祖だ。その後、ホアカリ6世孫の建田背などが出て、大和で活躍するのだが、『記・紀』には記されていない。
つまり大和の初期の定住者はホアカリ=ニギハヤヒ一族で、その丹後勢力はおそらく由良川を遡り、大和に進出して、最初に大和王朝を樹立したと考えられる。それらのことは、『海部氏本系図』や『海部氏勘注系図』に見える天村雲や建田背、仁徳朝では難波根子武振熊宿禰の活躍に現れている。
伊藤博文らの明治政府が、黒板勝美、今西竜らの御用学者を動員して韓半島の全史料の掠奪を計画したことは、偽史シンジケートと称されているのだが、伊藤博文らの偽史シンジケートは『日本書紀』の内容まで改竄したとされる。
日本の古代史は、まさに”韓隠し”による偽史だということだ。日本の古代史は日本列島で自生したものではなく、韓地からの文明が移植された歴史だ。その傍証の一つが縄文人と弥生人の隔絶という人類学の定説だ。騎馬民族が日本列島を征服したという学説を、日本史学界は受け入れなければならないだろうし、そうでなければ、日本古代史の真実は明らかにされないと思う。
〔反正紀〕
反正朝は応神朝に戻った状態
『記・紀』における反正の記事は極めて少ないことから、治績がとぼしい存在感のない大王という印象が強い。反正に対する『記・紀』のそのような冷遇はどこから生じたのかを問題意識にして徹底追求してみた。