太古の時代、日本列島は無人島に等しい地であり、朝鮮半島からの渡来人がこの列島を開拓したのです(本紙「幻の大和朝廷」第60回<伴野麓>)。
以前にも述べたように、西暦157年頃に浦項あたりから出雲に渡った人々もいました。新羅系山陰王朝を構成していた勢力です。
この勢力が「国譲り」によって表舞台から姿を消した後、朝鮮半島の本国でも政治的に作られた渡来の波が始まったのです。その最初の大きな波が西暦400年頃の高句麗の広開土太王(374~412、字は談徳<タムドク>)と倭軍の衝突です。
好太王碑にもあるように、新羅の要請を受けた高句麗軍は百済と任那、さらに倭軍を撃破した結果、数多くの難民が日本に渡ることになったのです。
その一例が百済の「弓月の君」が120の県の民を連れて渡来し、京都太秦を本拠にしたといいます。その秦氏が農業・養蚕や繊絹の技術を広めたのです。
南北朝時代に北畠親房が著した「神皇正統紀」には、仲哀時代に20万3000人、神功時代に30万8500人、応神の時に25万人、欽明時代に30万400人、推古時代に43万人、天智時代に2万3000人、恒武時代に40万人もの渡来人があったと述べられています。
その合計は、400年の間に約200万人にも達したことになります。当時の人口から見ても渡来人の数字は非常に大きいものです。
しかも、この渡来人には伽耶(532年)や百済(660年)、そして高句麗(668年)のそれぞれの滅亡に伴う亡命者が多くいたのです。滅亡した王朝は子々孫々まで殺されるからです。亡命者はその地位の高さからそれぞれに教養や技術を持ち、日本社会に溶け込んでいったものと思われます。
しかし、亡命者の数が多すぎたためか、新たな入植地も少なくなり、埼玉県の高麗神社の高麗王若光が716年に集めた高句麗人は1799人だったようです。
西暦815年に嵯峨天皇の命により編さんされた古代氏族名鑑では、京畿内に住む1182氏のうち、渡来人系の氏族は秦、大蔵など326氏(全体の3割)を数えるということです。
氏を与えられ、地位役割を獲得した渡来人の割合が多いということは特記すべきことです。
そのうち百済系は104氏、高句麗系は41氏、新羅系は9氏、任那は9氏とされ、漢系は163氏とされています。秦一族は、自らは中国の秦王朝から来たといいますが、任那系として認められているようです。
その秦一族の稲荷神社は全国に3万2000社もの境内社があります。政治に関与しない職能集団であり、治水、製鉄、酒の醸造、養蚕など殖産興業の祖として日本社会に貢献してきたことは明らかです。
いずれにせよ、日本社会において、渡来人は経済を支え、技術を持って貴重な役割を果たしてきたことは想像以上だと思います。
しかも、「倭の大王は百済語で話す」「百済語が日本語で、百済語を投げ出したのが韓国語だった」という見方をする学者(金容雲氏)もいます。
百済語は日本語と同じ開音節言語(音節が常に母音で終わる言語)だったという説もあって、現代韓国語は閉音節言語(子音で終わる)なのです。
もともと百済人と日本人との間には通訳が不要であり、通訳者の記録がないといわれています。
従って、その百済人が日本社会に溶け込むのは比較的、容易であったのではと思うわけです。