姜在彦は日本へ渡って来た目的を以下のように回顧している。
<「在日」中の貴重な時間をマルクス経済学に集中し、戦争が終わればできるだけ早く帰国する(『歳月は流水の如く』47頁)>
マルクス経済学こそ、朝鮮民族の明日を切り開く学問だという「信念」を抱いての渡日であったろう。翌年(1951)9月、姜在彦は日本共産党に入党。同月8日「神戸市警非常態勢、講和反対の鮮共系騒ぐ」と、国家地方警察本部警備課が特に記録している。
ここに「鮮共」とあるのは、朝鮮人の共産党を指す略語である。何故、国家地方警察本部が「鮮共」という用語を使ったか。”朝鮮人が騒いだ”と記録しても良かったのだが、そのように記録しなかった理由は「鮮共」と表現した背後の警察の「観察」、警察の情報収集があったと推察される。「鮮共」と表現する以上は、日共の指導ではない動き、と捉えたのだろう。当時、「鮮」という表記は「朝鮮」の略称であった。鮮共とは朝鮮共産党を意味し、つまり南朝鮮労働党を指した。
神戸での騒ぎは日本共産党の指導下で行われたのではなく、海州からの指令というか朴憲永の指図があったと、国家地方警察本部警備課は見ていたのだ。昭和25・26年は朴憲永が祖国防衛委員会を組織、日本での朝鮮人運動を示していたのだが、これらの事実が今日では歴史的に抹殺されている。
NK会で、南労党No・4であった朴甲東は「南朝鮮革命を補助する為に南労党員を日本へ潜入させた」という証言をしている。朴甲東は当時の38度線以南に居住していた南労党の最高位の指導者であった。朴憲永がNo・1であり、No・3まで北へ、米軍の弾圧を避けて北朝鮮へ逃げていた。朴憲永は38度線以北の海州から祖国防衛委員会へ指示していた。それらの指示文書に関して、法務府検務局は「部外秘」の資料『神戸港を中心とした密輸の動向』(51年9月刊行)の中に、「赤色文書の密輸入」の項目を設け、「中国語・朝鮮語の赤色文書が中共並に鮮共系バイヤーの手から運ばれた」と記述している。そして、この文書に記述されている「鮮共」は朴憲永の南労党を指している。
神戸港に入る外国船の船員に仮装した鮮共系(南労党系)バイヤーから日共秘密党員に渡され、日共地下組織隊の手によって翻訳される。そして翻訳された文書は、日共秘密党員が「各地区委員などに配布、更に簡単なガリ版のアジビラとして各所に撒布されており、今日までの反米、反戦ビラは殆どこの経路を辿ったもの」と言われている(『神戸港を中心とした密輸の動向』61頁、法務府検務局、部外秘、51年9月刊)。
この『神戸港を中心とした』に書かれている、「日共地下組織隊の手によって翻訳された文書」とあるが、これは姜在彦の日本共産党入党時期に合致する。つまり、日共地下組織隊の翻訳部門に姜在彦は派遣されてきた。姜在彦の渡日は南労党の対日工作の一環だったと考察すると分かる部分である。
姜在彦は渡日した事情をマルクス経済学の勉強を深めるためだったと述べている。当時の「マルクス経済学」とは、コミンフォルムの指導を受ける、スターリンのマルクス主義に基づくものであった。姜在彦は渡日前の韓国在住当時にマルクス経済学を勉強していたのだ。玄界灘を渡ってくる前、渡ってきた後も姜在彦はマルクス経済学をひたむきに勉強していたと述べている。
それは、姜在彦が国際共産主義運動に忠実な戦士であったことを示している。そういう人物・戦士こそ、南労党の対日工作文書の翻訳を担うのに適していたのだった。