〔履中紀〕
履中を支えた安曇海部氏族が和珥氏族に敗北
女鳥王と速総別の伝承や京都府宮津市須津に鎮座の須津彦神社と須津比売神社のこと、また与謝郡与謝野町(旧岩滝町)の大内峠(王落峠)のことなど、京都は丹後の事績が、史料から抹殺されていることを指弾した。
仁徳を支えた勢力は、住吉を本拠にしていたであろう安曇氏族と、初期の大和王朝を樹立した京都丹後勢力の海部氏族であったことを明らかにしたのだが、履中もその勢力を踏襲して仁徳の後を継いだと思われる。
『日本書紀』は、履中の葦田宿禰の娘に当たる黒姫を妃とし、磐坂市辺押羽・御馬・青海姫(飯豊姫)が生まれたとしている。『古事記』も同様に、葛城曾都毘古の子の葦田宿禰の娘の黒比売と結婚して生まれた子が、市辺忍歯王・御馬王・青海郎女(飯豊郎女)としている。
住吉仲と異腹の弟・瑞歯別(反正)の争い
履中が太子であったとき、黒姫を妃にしようとして弟の住吉仲を仲人に立てたのだが、住吉仲が黒姫を犯してしまった。そうとも知らず翌日、黒姫のもとを訪れた太子の去来穂別(履中)は、住吉仲が寝床に忘れていった鈴を見て事の次第を知り、黙ってその場を去って行った。
それなら履中は黒姫を妃にすることはないだろうと思われるのに、不思議にも妃との間に先の3人の子を授かっている。住吉仲が犯した黒姫と、履中の妃の黒姫は別人だとの論述もあるようだが、笑止千万というべきものだ。
〈履中紀〉は6年まで記されているが、実際の在位は3年ほどと見られているから、3年間の事績は架空のものだと考えられる。
あるいは3年間の空白期間があったと見るべきだろう。その3年間の架空あるいは空白とは、履中の死亡に伴う喪の期間であったとも考えられる。そうであったから、黒姫は太后という存在になり、後継者の指名にも影響力があったのだと考えられる。
だからこそ住吉仲は太后である黒姫を、太子であると偽って犯してしまい、後継者としての指名を取り付けたと思われるのだ。その太子とは瑞歯別(反正)であったのだが、太子(瑞歯別)の顔も住吉仲の顔も知らなかったであろう黒姫は、住吉仲の要求に応じてしまったと思われるのだ。
住吉仲の名称から、住吉邑を本拠にしていたであろうと思われ、その住吉仲が難波宮を焼き払い、占拠したと考えられる。その難波宮には、酒に酔いつぶれた太子(履中)がいたとされているが、実際は死去した履中その人であったと思われてならない。