姜在彦が日本に渡って来たのは1950年12月であった。韓国でのマルクス経済学の研究は無理だと判断したからだと述べている。
大阪には一族の姜鉄がおり、迎え入れて貰っている。そして次に伝手を便り大阪商科大学の名和統一教授のもとに行く。大阪商科大学で旧制の研究科へ入る。
姜在彦の渡日は密航であったが、当時の日本は米軍の占領下にあり、「独立」していなかった。講和条約を結ぶまで朝鮮人は法的には戦前の日本国籍を保持している、という見解があった。だから、姜在彦は合法的に大阪商科大学に入学できている。姜在彦の場合、朝鮮戦争下での学求生活は難しかったと推察される。
姜在彦は50年の12月に渡ってきて、51年の9月には日本共産党へ入党している。マルクス経済学の勉強が日共に引きつられたのであろう。だが、金時鐘が49年6月に渡日し、50年1月に入党していることと合わせると、姜在彦の韓国での政治活動が推測される。姜在彦自身は李承晩政権を守るために銃を取りたくなかったと述べているが、反体制的運動に関わっていたのではなかろうか。
金時鐘で言えば南労党も日本共産党も、当時の国際環境では同じ共産主義運動の担い手として相互の出入りが自由であったから入党している。姜在彦が日本共産党を離れるのは、55年の六全協後のことだった。
六全協を境にして朝鮮総聯が結成される。多くの朝鮮人党員が日共を離れていった。もちろん、姜在彦もその一人であった。
朝鮮総聯が結成された55年5月25日から68年まで、朝鮮総聯の専従活動家として過ごしている。つまり51年から55年までの約4年間近く、姜在彦は日共の党員だった。それも民対というか主流派の党員だった。
この履歴は朝鮮総聯内で後覚分子とされる。それでも姜在彦は60年から68年まで朝鮮総聯の近畿学院の教員を務めている。この後覚分子に対し、先覚分子とは国際派に属した日共党員を言い、金達寿はその先覚分子に区分けされた。むろん、韓徳銖はそうであった。姜在彦は後覚分子と低い評価を受けながら、68年まで朝鮮総聯に務め、何故に、朝鮮総聯を68年になって辞めたのだろうか。
「私は歴史をやっている立場から、53~55年までの朴憲永ら国内派の粛清、56~58年までの延安派の粛清に大いに疑問をもちながらも、朝鮮戦争とその後の戦後復興のための困難を克服するために、それを指導する党内の団結のための必要悪であろう、というように自分にいい聞かせてきたのです」(『歳月は流氷の如く』、36頁)。
ところが、68年頃から、北朝鮮でマルクス・レーニン主義を朝鮮革命の現実に適用させた金日成という表現が消えた、と姜在彦は感じたそうである。民族解放運動は金日成とその一族が指導してきた。いまにいわれる主体思想の発生である。姜在彦はそのことで北朝鮮はマルクス主義から離れた、歴史の改竄が行われた、と受け止めたのである。それはマルクス経済学の研究にうちこんでいた姜在彦には全く受け入れがたいことであった。この68年は北朝鮮へ渡った日共主流派に属していた多くの在日朝鮮人が粛清された年でもあった。
朝鮮総聯を離れ彷徨する姜在彦は73年に『季刊三千里』誌の創刊準備に誘われたことで徐彩源社主に感謝している。次に81年春の訪韓に誘われたことで、二度目の感謝をしている。この二度目の徐彩源社主への感謝は姜在彦がマルクス経済学から距離を置くきっかけを与えてくれたことであったろう。