幻の大和朝廷第59回

新解釈日本書紀(続)応神
日付: 2024年11月12日 11時59分

 沸流百済が建国当初、辰韓の大王であった辰王の権威を利用して百済(韓地西南部)を統治した同じ手法で、倭地でも和珥氏の権威を利用して、倭地を統治したと思われる。換言すれば、倭地に遥か以前から存在していた氏族であるかのように偽装し、他の氏族の不満や反発をそらしたということだ。それは、百済系大和王朝による新羅系山陰王朝の簒奪でもあった。
王仁は、その子孫が辰孫王を先祖としていることから、王仁も辰王の子孫と思われる。そうであれば沸流百済が建国当初、辰王に威を借りて国づくりをしたように、倭地でも同様の辰王の子孫である王仁の力を借りて国づくりをしたということだ。辰韓の王統であった辰王の権威は、倭地でもすべての種族が認める絶対的権威であったろうからだ。
応神は、品陀真若王の娘3人を妃としているのだが、品陀真若王は、丹波道主↓日葉酢姫↓五十磯城入彦↓五百城入彦↓品陀真若王という系譜で、品陀真若王の家に外部からきた応神が入婿したという解釈も可能となり、応神から新王朝になったことを暗喩するものだ。
それは、外部の沸流百済を迎え入れたということで、当時の大王は品陀真若王であったかもしれないということを示唆するのだが、品陀真若王の母系が尾張氏で、尾張氏を外戚とする大山守王が、和珥氏を外戚とする菟道稚郎子と王位を争って敗死するというエピソードがあることから、和珥氏が尾張氏にとって替わったことを意味する。
和珥氏の祖とされる難波根子武(建)振熊は、京都は丹後の海部氏勢力と縁が深く、河内・大和をも領知していたと考えられる。それゆえ、当時の和珥氏の統領は、武(建)振熊であった可能性が高く、応神朝の成立に協力したと考えられる。
要は大和に侵寇し突如、百済系大和王朝を樹立した沸流百済は、王仁を大王にして倭地における和珥王朝であるかのように偽装し、新羅系山陰王朝の不満や反発をそらしたと考えられる。そのカラクリに気付いた勢力は反発したのだが、結局は抑えこまれ取り込まれて、新羅系山陰王朝は百済系大和王朝によって簒奪されたということになる。
〔仁徳紀〕

京都は丹後のことが史料から消されている

『日本書紀〈仁徳紀〉』の記事は、河内での事績が中心であり、大和での故事は皆無に等しい。にもかかわらず、大和朝廷とする日本史学界の定説というものは、まやかし以外のなにものでもない。それらのまやかしは、倒錯や錯覚の論述で悪意の”韓隠し”というもので、そうした悪意の”韓隠し”を指弾し、古代史の通説を根底から覆して真の歴史を明らかにする必要があると痛感する。


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