韓国捜査当局が、朝総連が文世光を密封教育させた事実を糾明したことで、この問題が韓日間で深刻な外交問題となった。ところが木村敏夫外務大臣が「日本に法的責任がない」と話したと報じられるや、韓国国民の怒りが爆発した。韓国政府は日本政府に、日本政府の謝罪、類似事件の再発防止の約束、そして朝総連に対する規制、そしてこれを外交文書として確認するように要求した。
田中首相は椎名悦三郎自民党副総裁を首相特使として韓国に派遣(9月19日)した。韓国政府は田中首相の親書内容を事前に教えてくれるように要請したが、日本当局は断った。結局、日本側が知らせた椎名特使が指導する首相の親書内容には、朝総連(労働党日本支部)の規制問題は言及がなかった。日本側は、その問題は椎名特使が朴大統領を表敬する機会に適切に対処するとのことだった。
椎名特使は、朴大統領と韓国国民に謝罪を表し、朝総連であれどんな団体であれ、韓国政府を転覆しようとする団体に対しては取り締まりを強化することが日本政府の確固たる立場だと表明した。椎名特使は、官僚たちの事務的態度とは違ったという。
韓国政府は、椎名特使が約束したことにより、朝総連(労働党日本支部)の対南工作実態を徹底的に調査、または捜査してくれるよう要求した。しかし日本政府は、韓日国交正常化10年も経っていない時点で、北韓との関係改善の措置をとり始めた。日本側は、輸出入銀行資金で北韓への輸出支援を始めた。
日本と北韓の間で貿易促進に関する合意書が締結(1972年)され、輸出入銀行の融資が可能になったことで、北韓に機械及び設備の延べ払い輸出を開始した。北韓にプラントを輸出する企業に対する融資額が3~4億ドルに達した。
韓国が韓日国交正常化の時、無償・有償・民間借款を合わせて10年間6億ドルだったことを勘案すれば、日本側の対北関係改善の意志と速度は、韓国としては信じ難いものだった。日本側は自民党を中心に日朝友好促進議員連盟を作った。
朝総連も、日本当局の態度変化を見ながら、日本政界工作の主接触対象を日本共産党から社会党、そして自民党へと変えていた。日本当局は、すでに南・北韓に対する等距離接縮を隠そうともしなかった。日本の朝野では、北韓との関係改善が、太平洋戦争の戦後処理に最後に残った課題だと公然と語った。
韓国当局は、韓国が日本と反共自由民主主義の理念と体制を共有していないことを骨の髄まで感じるようになった。米国も日本の行動に関与しなかった。米国も国家の理念的政体より米国の利益に応じて行動していた。日本はすでに日本の国力、影響力の根源は経済力だと強調、政経分離と全方位外交を標榜していた。日中国交正常化のときも、日本企業の中には北京の要求に応え、北京側に媚びるため、韓国との取引を縮小する行動さえ見えた。
韓国政府は、いわゆる「西方陣営」が、東西冷戦の最中でもイデオロギー的に反共民主主義を優先するより結局、自国の利益に応じて行動することを学ぶことになった。朴正煕政府が自主的外交に出たのは、同盟と友邦が韓国をその方向に出るよう誘導した側面が大きい。ちょうど、第4次中東戦争でオイルショックが襲ってきたとき、韓国政府は米国に従って取ってきた親イスラエルから、アラブ産油国重視に旋回することになる。イスラエルは、韓国に報復措置を脅かしたが、韓国は生存がかかった問題だった。
(つづく)