太古の時代、日本列島は無人島に等しい地であり、韓半島からの渡来人が列島を開拓したという史実から目をそむけてはならない。『神皇正統紀』によると、異敵の来襲は開化48年の時に3万3000人、仲哀時代に20万3000人、神功時代に30万8500人、応神の時に25万人、欽明時代に30万400人、敏達の時には播磨国の明石浦までやってきた。推古8年に43万人、天智元年に2万3000人、桓武6年40万人とされている。「異敵の来襲」という文言は「韓半島からの渡来」と置き換えることができるはずだ。
日本史学界の通説は”幻の大和王朝”説、つまり大和王朝畿内説で、卑弥呼時代の銅鏡が畿内地域の4世紀古墳から集中的に出土することを根拠にしているという。それは、邪馬台国が畿内大和王朝に承継されたもので、征服王朝の記念碑とも主張される畿内地域の応神・仁徳陵の出現に特段の意味はないと主張。その学説は、万世一系の皇統史観に符号することから採用されているものだという。
それに対し、ネオ騎馬民族説という学説がある。南九州の狗奴国の応神が邪馬台国を征服し、仁徳が承継して畿内に東遷。大和王朝を建てたとされる。水野祐によって主張されたもので、邪馬台国は敵対関係であった狗奴国に征服されたために消滅したとし、そのため、266年以後に邪馬台国の名前が韓・中両国の文献から消えたのだと主張する。ゆえに外来集団の古墳出土品が急変するようになったとしているのだ。
しかし、韓・中両国の文献から邪馬台国だけが消えたのではなく、狗奴国も消えている。であれば、邪馬台国が存在しなかったように、狗奴国も存在しなかったと見るべきで、邪馬台国も狗奴国も存在しないのであれば、応神・仁徳は、邪馬台国と狗奴国のどちらにも属さないということになる。であれば、応神・仁徳はどこから来たのかということになる。
ネオ騎馬民族説は、江上波夫の騎馬民族征服王朝説から一歩も前進していないと指摘されている。つまり、韓地から渡海したとしても、南九州から東遷したとしても、畿内からみれば結果はどちらも外来集団ということになるからだ。
『旧唐書〈日本伝〉』に「日本国者倭国之別種」、すなわち倭人でないことを明記し、日本史学界の一部も「実在したことが確かな最古の天皇(応神)は韓半島からの渡来者であることを否認することはできない」と述べている。
『桓檀古記』の訳者である鹿島昇は、伊藤博文らの明治政府が、黒板勝美、今西竜らの御用学者を動員して韓半島の全史料の掠奪を計画したと指弾し、それを偽史シンジケートと称している。その偽史シンジケートは、『日本書紀』の内容まで改竄し、軍部も大いに関与していたという。
偽史シンジケートはまた、ひそかに仁徳陵内部を調査し、仁徳と無縁の陵であることを知って、内葬品を盗み出し、その盗み出した出土品はボストン博物館に陳列されているということだ。さらに六国史の虚構を死守するため、天皇家とは縁もゆかりもない大和古墳群、ついで日向西都原古墳群をも閉鎖したという。