記述の足りない「辞典」である。おそらく、今は記述不足で活用する人も少ないだろう。
西岡力流にいえば「日韓誤解の深淵」は、この「辞典」の記述不足に発するとも言える。
例えば姜在彦の出生地の「済州島」に関わる描写など、五島列島との民俗学的繋がりが描写されていない。いわゆる併合前から、日本への渡航が行われていた、と記述されているのは史実に合っている。
だが、それが日本の産業活動に大きな影響を与えたことへの言及を欠いている。また、日本の幾つかの地域で、済州島コロニーが成立した「理由」と「原因」が記載されていない。その「理由」と「原因」の歴史を背景に、姜在彦の存在がある。
併合前の済州島コロニーの調査と研究には大きな制約を受けた。今さら掘り起こして何になる、と忠告された。併合後の済州島コロニーの調査研究は、金正日研究に欠かせないと渋谷の高淳日からは後押しされた。その高淳日は『在日コリアン辞典』に記載されていない。NHKのハングル講座開設に多大な功績があったにも関わらず、記述がない。
姜在彦に関しては、萩原遼の想い人だったという噂のあった鄭早苗が記述している。
「1970年頃まで民族運動に関わりながら同胞の子どもたちに歴史を教える。1981年から金達寿や李進熙などと『季刊三千里』を発行した。その後、研究を継続し、『朝鮮近代史研究』(日本評論社)、『朝鮮の開化思想』(岩波書店)、『世界の都市の物語 ソウル』(文春文庫)、『朝鮮儒教の二千年』(朝日選書)など実に多くの著作を出版している」(『在日コリアン辞典』78頁)。
この記述は、姜在彦が訪韓を振り返った次の言葉を裏付ける。
「いろいろな批判のなかで、訪韓を決意してよかったと思った……もう一つの祖国をじかに見て、いろいろな問題をかかえてはいるが、そこに希望を託せる確信をえた」(『歳月は流水の如く』74頁、青丘文化社、2003年刊)。
鄭早苗の「民族運動に関わり」という表現は、朝鮮総聯の活動に従事していたことを指している。そして1973年から姜在彦は徐彩源の呼びかけに応じて『季刊三千里』誌の創刊に関わり、1981年は徐彩源社主の誘いに応じて金達寿、李進熙と韓国を訪れる。それまで北朝鮮を祖国として来ていたが「もう一つの祖国をじかに見て」、そこに希望を託せる確信を得たと述べる。
姜在彦は人生二つの分岐が徐彩源社主によってもたらされたと感謝している。
一つ目の分岐が平壌文化語ではなく、ソウルの標準語講座をNHKに設けさせる運動への参画であり、二つ目の分岐は訪韓を契機に運動家から歴史家への道に進めた、という思いであったろう。それまでの北朝鮮を祖国とする、いわゆる主体思想を軸にした歴史研究では、歴史家としての仕事が中途半端なものになったという思いであったろう。
姜在彦の年譜を見ると、鄭早苗の指摘したように、1981年以降に本格的な朝鮮史に関わる仕事をしている。
韓国で姜在彦の著作は、1982年の『朝鮮近代史研究』(図書出版ハヌル)から、1983年の『日帝下の40年』(図書出版ブルビ)、1984年の『韓国の近代思想』(ハンギル社)と立て続けにハングルに訳され、韓国で出版されていく。
それは学者として認められたことでもあった。