東アジア文字考~漢字を巡る遥かなる旅 第18回 水間一太朗

新字体が破壊した原意を取り戻す②
日付: 2024年10月16日 10時38分

 尺と釈と釋

新字体では旁(つくり)の『睪』を『尺』に変更した字は多い。駅(驛)、沢(澤)、択(擇)、釈(釋)がある。常用漢字としての使用頻度はすこぶる高い。ところが、『尺』の旧字体は『睪』ではない。音読みで比べるとそれは一目瞭然となる。『シャク』は『尺』と『釈』、『エキ』は『睪』と『駅』、『タク』は『沢』と『択』と3種類の音があるのがわかる。この違いは呉音、漢音、唐音の違いではない。語源の系統が異なるので音の違いが生じるのである。

(上段から)尺・睪・釈

 

 『尺(シャク)』は、親指と中指を開いた形を表す。わが国の『あた(咫)』にあたり、寸の十倍である。対して『睪(エキ)』は、獣の 屍 が風雨にさらされて分解する状態を表している。さらにこの字には「解きほぐれて長く続くもの」という意がある。ここから、馬に長く乗り継ぐものとして『馬』+『睪』で『驛(駅)』という字が生じた。だから音読みでは『エキ』と発音する。
『澤(沢・タク)』の語源は『鐸(タク)』の語源を考えるとわかりやすい。『鐸』は銅鐸の『鐸』である。説文解字には「大鈴なり」とあり、文事には木鐸、武事には金鐸を使用した。この場合の『睪』は音符である。『澤(タク)』の『睪』も音符だ。『擇(択)』は『タク』の音だが、『驛(駅)』系統の仲間になる。獣の屍(しかばね)が風雨にさらされて白骨状態になったものを選ぶところから作られた。これが音符の音と一緒になった文字になる。
さて、前回も書いたが、国語審議会が示した新字体の作成方法の第一原則は、旧字体の旁(つくり)を「同音の画数の少ない文字に統一」することにあったはずである。旁の『睪』を『尺』に統一することはこの原則を無視したことになる。新字体作成時の国語審議会では、自らが掲げた原則を無視した行為があまりにも多い。国民はその無知の犠牲になったのだ。

釈迦という漢字

実は、この『睪』を『尺』に変更した最初は中国での仏教布教にあった。仏教の開祖であるシャカの漢字表記は釋迦である。だが釋迦の『釋』は字数が多く布教するためには簡素化する必要があった。当時、庶民でも知っているのは『尺』であったので布教用に新しい字を作成した。それが『釈』という字であった。白川静は『釈』の字の成り立ちを「『尺(thiyak)』と『釋(siyak)』の声が近いからである」と『字通』で解いている。しかし知識人たちは決してこの略字を使用しなかった。『睪』と『尺』は根本的に原意が違うからである。もちろん『驛・澤・擇』も同じ理由で決して『尺』に変更した字を作ろうとはしなかった。それを戦後の国語審議会はいとも簡単に押し通してしまったのである。
仏教導入時の中国では、深い尊敬の念を持って『釋迦』という字を充てた。様々な事象を解きほぐすことを『解釈』というが、『解』も『釈』も「解きほぐす」という意である。『釋(釈)』の偏(へん)は米の上にノが付いた獣爪の象であり、獣爪を持って解体することを表した字である。『迦』は遮り止めることを表す。即ち『釈迦』とは、「遮り止めるものを解きほぐしてわかりやすく示すもの」であり、シャカの人となりを見事に表現したものなのだ。
仏教布教の最中、誤謬(ごびゅう)と知りながらも『釋』を『釈』として宣教に勤しんだ人々がいた。その人々は深い祈りを持ち、良心の呵責と葛藤しながらも大義のために『釈』の字を使ったのであった。果たして昭和の国語審議会はどうであったのだろうか。その動機が国語の破壊にあったとするならばあまりにも悲しいではないか。(つづく)

 

水間 一太朗(みずま いちたろう)
アートプロデューサーとして、欧米各国、南米各国、モンゴル、マレーシア、台湾、中国、韓国、北韓等で美術展企画を担当。美術雑誌に連載多数。神社年鑑編集長。神道の成り立ちと東北アジア美術史に詳しい。


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