新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第56回 伴野麓

日付: 2024年10月16日 10時36分

 要するに、大和に侵寇して百済系大和王朝を樹立した沸流百済は、突如として王仁を大王、倭地における和珥王朝であるかのように偽装した。
新羅系山陰王朝の不満や反発から視線をそらせたのだと考えられる。そのカラクリに気付いた勢力は反発したが、結局のところ抑えこまれ取り込まれて、新羅系山陰王朝は、百済系大和王朝によって簒奪されたことになる。

 〔仁徳紀〕

京都は丹後のことが史料から消されている


『日本書紀〈仁徳紀〉』の記述は、河内での事績が中心であり、大和での故事は皆無に等しい。にもかかわらず、大和朝廷とする日本史学界の定説というものは、まやかし以外のなにものでもない。それらのまやかしは、倒錯や錯覚の論述で悪意の”韓隠し”というもので、そうした悪意の”韓隠し”を指弾し、古代史の通説を根底から覆して真の歴史を明らかにする必要があると痛感する。
『記・紀』は、女鳥王と速総別が、仁徳の追手に追われて大和の山奥に逃げたと記すのだが、丹後にかつて倉椅山や倉椅川があって、女鳥王と速総別が逃げてきた伝承がある。それは、京都府宮津市須津という地の伝承で、その地に鎮座する須津彦神社と須津比売神社の祭神は、速総別王と女鳥王だという。
また隣接の与謝郡与謝野町(旧岩滝町)には大内峠があって、王落峠が語源だと伝承されている。一つは女鳥王と速総別が逃れた道だといい、もう一つは億計王と弘計王が身を隠した道だという。そのように、かつての丹後は朝廷と深い関係にあったことを暗喩するのだが、次第に軽視され無視されて、史料からもそうした伝承が消えていったと考えられる。
丹後勢力は由良川を遡り大和に進出して、初期の大和王朝を樹立した勢力だと考えられる。それらの勢力は、『海部氏本系図』や『海部氏勘注系図』に見える天村雲や建田背、仁徳朝では難波根子武振熊宿禰の活躍に表れていると思われる。

伊藤博文らの偽史シンジケートは『日本書紀』の内 容まで改竄

応神朝には弓月王が120県民、阿知使主が17県民など、実に多くの人々が倭地に渡来した。しかし「今も昔も、日本列島の人口は朝鮮半島の約3倍である。中国型の都市文明の発達こそ、日本列島は朝鮮半島より一歩遅れていたけれども、何かの永続的な刺激があれば、日本列島でも都市化と王権の成長が進むだけの条件は整っていた」という論述が平然となされている。
韓半島から倭地に渡り、倭地に定住して韓半島と接触すれば、それは倭地の人物となり、渡来前の出自は隠蔽されてしまうということになる。


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