先号(42回)で京都国際高校の校歌を契機として、韓国の浦項地域の亡命者を王として迎え入れた大和の寛容性について述べたところ、これを読んだ読者から日本人の寛容をいうが、耳塚の話もあるとの反論を受けました。
確かに日本の歴史をみると、他民族に対する残虐な事象も見受けられます。関東大震災の朝鮮人虐殺や中国人に対する南京大虐殺や731部隊もあるのです。これら近代日本の組織的加害は未だ被害者や関係者も存在しているので償いをしなければならない事柄です。そのための運動が私のライフワークというべき「戦後補償」なのです。
ところで、先号で私が「寛容性」と指摘したのは、日本人の外来文明に対する態度であり、政権交代時の「敵」に対する扱いなのです。
古墳時代、朝鮮半島から伝わった須恵器などの製作にあたり、伽耶や百済、新羅から数多くの渡来人が技術を持ってきて定着しました。鉄器生産のための鍛冶工房は日本中に渡来人の跡を見つけることができます。そのほか、古墳時代に渡来したかまどなども含め、日本の生活と文明は渡来人による恩恵が多いのです。これらを賢く受け入れたのは、江戸時代の蘭学の受容と似ています。そこに共通するのは外来文明に対するリスペクトではないでしょうか。
これとの関係か、権力構造の変更にあたって日本では戦いがあっても決着が付けば敗者にも生きる場を与えます。すでに述べたように出雲大社や諏訪大社を残すことにより敗者を大和政権の支配に平和裏に協力させています。平安時代の都であった京都は、「敵」であった「新羅系山陰王朝」系が開拓した土地でした。八坂神社はまさしくスサノオを祀った神社であり、平安時代の末期には太政大臣となった平清盛が崇拝した神社なのです。
これに対し、鎌倉の鶴岡八幡宮は源氏や武家の守護神となり、八幡神社は全国に1万社という最多の支社を誇ります。全国2位の稲荷神社のいずれもがアマテラス系には属さないことに特徴があります。すなわち、平氏も源氏も鎌倉、足利そして徳川家などの武家政権は全て「百済系大和王朝」から外れた「新羅系」の系統に属するといってよいのではないでしょうか。
そして、明治政府は結果的には神仏分離令の方針で、八幡大菩薩は禁止され、宇佐八幡宮や石清水八幡宮も政府から圧力を受けました。
しかし、外国との戦争が続き、八幡大菩薩信仰は強く残ったのです。このような歴史の流れを見ると旧支配勢力の平安時代の藤原一族は、武家支配となったあとも天皇を祀り上げる役割を維持しています。
平治の乱で負けた源氏(源頼朝ら)を平清盛は皆殺しにせず、島流しに止めています。源氏に負けた平氏には落人伝説や平家蟹の話は聞きますが、追われた落人が追及されて殺されたという話は聞いたことがありません。
鎌倉幕府を倒した足利尊氏の武力も不充分だったため、新田義貞や楠木正成の軍は破っても、後醍醐天皇には逃げられ南朝を樹立されてしまったのです。
この室町幕府の最後の将軍足利義昭も織田信長によって京を追放されただけで、将軍の地位を返上したのは15年後と言うことでした。
豊臣秀吉は兵糧攻めの戦術で敵を降伏させ、味方を温存するのを得意としました。四国攻めで長宗我部元親を攻めて降伏させたが、土佐一国を安堵しているのです。
徳川幕府も秀吉の部下であった加藤清正や福島正則を利用しています。その徳川幕府を倒した明治政府は、勝海舟や榎本武揚だけでなく多くの旧幕臣を登用して共に近代国家への道を歩んだのです。
このように旧支配勢力に属する人を巧みに取り込んで有効に利用するのは、日本社会の特徴といってよいのではないでしょうか。
髙木健一(たかぎ けんいち)
1944年生まれ。東京大学法学部卒、弁護士。長年サハリン残留韓国人問題、慰安婦問題、在外被爆者問題など戦後補償問題に取り組む。89年韓国国民勲章牡丹章受章。著書『今なぜ戦後補償か』(講談社現代新書)ほか。