新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第53回 伴野麓

日付: 2024年09月25日 12時43分

 碑文や刀の銘文を改竄するくらいだから、手書きされた『記・紀』の改竄など非常にたやすいことであったろうと思われる。
〈神功紀〉の場合、デタラメな三韓征伐譚を正当化し、侵略史観を高揚することはとんでもない破廉恥なことであり、この世の教育にあっては許されないことだと思われる。そのような偽史が、国益の名のもとにまかり通っているのは遺憾なことだ。歴史の偽造は許されてはならないことだし、真実の歴史が提供されてこそ、正しい国際理解が進むと確信する。そのためにも、真実の歴史を追い求める必要がある。

〔応神紀〕

応神朝は沸流百済と和珥氏族との両面王朝

”韓隠し”の定説を根底から覆す新解釈の革新古代史であることを自負し、応神の正体の真実に近づきたいと願い、徹底追求してみた。
応神朝は単なる亡命王朝ではなく、当時の河内・大和の地の統領であった和珥氏族と、河内・大和を侵寇した沸流百済との合体王朝であることを発見した。その実態は、沸流百済の圧倒的な軍事力に屈した和珥氏族が、沸流百済に牛耳られた傀儡王朝であったということで、その手法は、沸流百済が辰王の権威を利用して百済(韓地西南部)を統治した手法と同じ形態だったと思われる。
和珥氏の祖とされる武(建)振熊の活躍に見られるように、和珥氏族の実体は、京都は丹後の海部氏勢力と考えられ、その和珥氏が、河内・大和をも領知していたと考えられる。沸流百済は、倭地における古くからの氏族である和珥氏族を抑え取り込むことによって、倭地に遥か以前から存在していた氏族であるかのように偽装し、他の氏族の不満や反発をそらしたと考えられる。それは、百済系大和王朝による新羅系山陰王朝の簒奪でもあったのだ。

応神は未知の世界から忽然と現われた

謎の4世紀とされる時代に、「未知の世界から忽然と現われた」と表現される応神の正体は何であるかについて、喧々諤々の論述が展開されているのだが、いまだにその結論には到達していない感じだ。
2001年12月23日、68歳の誕生日を迎えた当時の天皇陛下(現上皇陛下)は、「桓武帝の生母が百済の武寧王の子孫である和新笠であると『続日本記』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べたのだが、それは日本列島が韓地との深い交わり合いがあったということにほかならない。
「応神・仁徳陵の出土品を中心として考察すると、東北アジア系騎馬民族が、朝鮮半島経由で日本に侵入し、騎馬民族文化をもって、その征服事業に従事したことの反映が認められる。しかもそれが、日本における統一国家の成立とも直接結びつくものである」という江上波夫説、すなわち騎馬民族征服王朝説を想起させるのだが、その江上波夫説は、日本史学界では異端視されている。


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