今夏、甲子園で優勝した京都国際高校のハングルの校歌が話題になりました。日本語では「東の海を越えてきた、大和の地は偉大な我が祖先の遠い昔の夢の場所」とあります。メディアから「トンヘパダ」が「東の海」(NHK中継の訳詞)なのか「東海」なのか、尋ねる声があったほどです。
しかし、この校歌の設定した時代は大和建国に関わる時代です。その時代に「日本海」などという呼称はありませんでした。したがって「朝鮮半島の南東の地域から、東の方の海を越えて大和の地におり立った祖先が、国づくりに励んだ」というのが歌詞の意味となります。
『日本書紀』にも、スサノオが新羅の「そしもり」に降りた後、土の船で出雲国に至ったとの記述があります。私が注目するのは、その当時に新羅地方と出雲地方で人の移動が思ったより存在したのではないかということです。
九州と釜山の間の玄界灘は荒海で越えるのに難しく、これに比して蔚山や浦項の新羅地方と出雲地方を結ぶ航路は、波も穏やかで往来が容易だったようです。そのため、東の海を越えてきた多くの渡来人が出雲を通って近江や奈良、東海地方へ移動していったものと思います。
そのような渡来人が形成した国が、本紙文化面で連載している『幻の大和朝廷』(伴野麓著)のとおり、「新羅系山陰王朝」を形成したのだとする考え方に賛成します。
つまり、京都国際の校歌は、「東の海を越えてきた大和の地」での国づくりに励んだ祖先のことをうたったものだと解釈できます。
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韓国には西暦157年の新羅の阿達覇王のとき、東海岸の浦項あたりに住む延烏朗(ヨオラン)と細烏女(セオニョ)という夫婦が次々と岩に乗って日本に渡り、「尋常ではない」と驚いた日本人たちに推戴され、王になったとの説話があります。
これは、そのころ慶州の新羅が周辺の小王国を併合していったため、浦項地域の王が日本に亡命したようなのです。この亡命者に対して日本では排除することなく、先進文明を持った者として逆に王として処遇し、迎え入れたという寛容性こそ注目すべきだと思います。
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中国や朝鮮では、敗者は根こそぎ殺されます。日本では、国譲りの例からみても、その後の敗者に居場所を認めています。明治維新においても同じです。敗者をリスペクトして復活戦を認めるのは、日本の文化なのかもしれません。日本将棋のようにです。チェスや中国(朝鮮)将棋では、敗者は復活しません。これを復活させて活躍の場を与えるのは、ゲームをおもしろくさせるだけではないのです。
ところで、朝鮮半島の勢力の変更で伽耶地域からの大量の渡来人の移住と百済の滅亡に伴う百済の亡命渡来人によって構成された「百済系大和王朝」が権力を掌握しました。国譲りの神話はこれによって解釈できます。平安時代の藤原一族は「百済」そのものではないでしょうか。本国での敗者が日本で復活したのです。
しかも「新羅系山陰王朝」の勢力は滅亡することなくしぶとく生き残っています。新羅系の象徴というべき富士山が日本の象徴であるのに『日本書紀』には2度くらいしか記述がないのです。また、スサノオ系の神社はアマテラス系の神社とほぼ同じくらいあるといわれています。それでも東海地方や関東地方に展開した「新羅系」は、武に長けており、無視できない勢力になりました。そして鎌倉幕府から足利幕府、そして徳川幕府への流れにつながってゆくものと思うのは、私の独断かもしれません。
このように、東の海を越えて大和の地を開発し、国づくりをしようとした。祖先に想いを馳せることができる校歌は貴重だと思うのです。
髙木健一(たかぎ けんいち)
1944年生まれ。東京大学法学部卒、弁護士。長年サハリン残留韓国人問題、慰安婦問題、在外被爆者問題など戦後補償問題に取り組む。89年韓国国民勲章牡丹章受章。著書『今なぜ戦後補償か』(講談社現代新書)ほか。