この「反動政客たち」は、維新体制に疲労感を感じ、成長から疎外されたと剥奪感を感じている勢力を集め、維新体制を敵とするあらゆる勢力と連帯し始めた。このような情勢で、絶対貧困から抜け出るや相対的な貧困、相対的剥奪感の解決を要求し始めた労働者たちの抵抗は、反朴正煕闘争の野党にとっては有利な状況となった。
事実、朴正煕大統領は、革命直後から、社会主義体制ですべての労働者や人民に無償医療など福祉提供を宣伝する北側に対抗するため、安保次元で貧弱極まりない財政状況など、厳しい環境の中でも医療など社会保障体制の整備努力を忘れなかった。朴正煕の革命政府は1963年12月、国家再建最高会議の発議で医療保険法を制定した。朴正煕政府は77年からは500人以上の事業場に職場医療保険制度を施行した。職場医療保険は79年1月、公務員と私立学校の教職員にまで拡大された。社会保障拡大に向けての政府の段階的、体系的努力は誰も否定できないものだった。
経済開発5カ年計画を推進している政府としては、限られた資源の中で社会保障の拡大にも段階的に最大限努力してきたのだ。「セマウル運動」こそ、政府の財政能力がなかったため、住民の自助精神を呼び起こし、自主的国民になるようにするための国民精神運動だった。このような現実を無視し、権力から疎外された政治家たちは民主主義というスローガンだけを前面に出し、朴正煕と近代化革命と維新体制の批判、否定にだけ拘った。彼らは自分たちのビジョンの無さと無能さを隠すため、さらに抵抗を拡大していった。
一言で言えば、国家指導者と国民の多数との間で追求する目標の不一致、葛藤が表面化し始めたのだ。朴正煕の目標・ビジョンは、すでに貧困からの脱出を超え、自主国防と先進国への邁進に据えられていた。内外のあらゆる悪条件を乗り越え、安保と近代化を超えて先進化を急ぐ朴正煕と、軍事革命を「軍の政治介入」とし否定しながら、ひたすら自分たちの権力奪取を追求した「文民政治家たち」の認識とはあまりにも大きなビジョンの違いがあった。
特に、安保観において決定的な隔たりがあった。朝鮮朝からの根深い事大主義体質から抜け出せなかった政治家たちや、機会主義の知識人などは、自ら国防力を育てて国家を守ろうとはせず、米国の軍事力と韓米同盟に安住し、国防と安保は自然に得られるものと考えていた。建国以来、伝統的に反共路線だった野党は、「民主主義の守護者」である米国を信頼し追従すれば良いとなったのだ。
国民国家としての尊厳と自主国防の努力までも、米国の世界戦略や利益の枠組みから抜け出せないように強制されることに抵抗する朴正煕を、野党は民主主義を抑圧する独裁だと攻撃した。伝統的に反共路線だった野党には、米国に韓国の「民主主義」、つまり自分たちに対する保護を求める風潮が増えていた。彼らは、自主的かつ自立的な大韓民国よりも、「米国式民主主義」と制度に順応する反動勢力となった。
朴正煕とその支持勢力は「民主主義を至上の価値と主張する観念的な事大主義者たちを心から軽蔑した。もはや「維新体制」と「反維新体制」は妥協、共存しにくくなった。
そして、維新体制への反対・抵抗を、自発的かつ自生的に民主主義のための闘争だったと「美化」した。歴史的記録が、果たして真実であったかを究明する作業が必要だ。「維新体制」を倒すために膨大なエネルギーが必要とされた。
(つづく)