韓日の古代史で私が不思議でたまらないのは倭(日本)と新羅の関係だ。争ってばかりである。船を出し軸先を東に向ければ容易に山陰や北陸に着く。神話のスーパースター、スサノヲ尊と息子の五十猛は新羅から出雲に渡った。鍛冶神、天日鉾は新羅の王子で但馬に着いた。半島の国史・三国史記には新羅の第4代王、脱解は列島から渡った倭人であったように記されている。切っても切れない関係のように思えるが、なぜなのだろうかと思う。
半島は有史以来、931回もの侵略を受けたという研究がある。そのうちの何割かは倭によるものだろう。逆の例は2件しかない。元に出兵を強いられた元寇の役と15世紀に朝鮮王朝が倭寇根絶のために1万7000人の兵で対馬を襲撃した事件だけ(新羅海賊の本土襲来も数件あり)。
考えてみれば、今のロシアとウクライナのようなものか。ロシア人は国家というものを遅く作った。その始まりは9世紀にウクライナに生まれたキエフ公国。ロシア人が帰依するロシア正教の聖地もキエフの聖ソフィア寺院である。権力欲が国益という名目のもとに民族の血のつながりを踏みにじっているのは古代から今日まで世界で続く悲しい性だ。
倭と新羅の争いは三国史記に詳しい。その中に4世紀初め、倭国が新羅の王女に求婚したという記事が2件ある。どちらも上手くいかなかったようだが、そんな友好的な記事はその時代だけで、あとは倭勢力の一方的な侵入記事だ。侵入勢力が半島南部の倭人なのか北九州か、ヤマト勢力だったのか諸説あるが、領土欲はなく短期間で兵を引いているのが不思議だ。
新羅との敵対関係が変わるのが唐・新羅連合軍に完膚なきまで敗北した663年の白村江の戦いの後。連合軍は高句麗をも滅ぼしたのだが、唐がその機に半島支配を目論んだため、今度は唐と新羅の関係が怪しくなる。このため新羅は倭を後ろ盾にすべく、極めて低姿勢で接近してくることになる。驚くべきことに同時期、唐の旧百済駐留軍も倭人捕虜1400人を送り返し、軍事的支援を要請している。これらの動きは倭の潜在的大同意識を増長させただろう。
結果として新羅の巧みな外交・政治戦略で、唐は半島から撤退。急接近した新羅と日本(このころから国号は日本)はほぼ1世紀の間に新羅から45次、日本から31次の使節が行き交うことになる。しかし、この一見良好と思える関係はもろいものであった。日本は新羅の低姿勢を小国が大国に対する儀礼である「朝貢」ととらえたが、孤島の日本と違い半島三国は大国・中国や周辺の異民族の間を巧みに生き抜いてきたのだから、その外交術は日本より一枚も二枚も上手であった。
新羅は唐との関係が回復するにつれ、日本への使節の頻度を減らす。そもそも朝貢のつもりはなかったし、高句麗の遺民が建国した渤海国と日本の関係にも脅威を感じたのであろう。
735年に新羅使が追放になるという事件が起きる。使節は国名を王城国に改めたことの報告に来たのだが、「日本の承認なしに国名を変えたことは宗主国に対する無礼」としたからだと伝わる。凄い小中華、大国意識である。案の定、翌年日本の使節がその報復で追い返され、その関係は険悪化、派兵論まで出たという。その後も新羅使の追い返しは連発された。日本側の言い分は毎度「新羅無礼なり」であった。
無礼というだけで派兵論につながるとは驚きだが、本気の派兵計画があったことも続日本紀にある。時の権力者、藤原仲麻呂が394艘の船を造り、兵士4万700人、水夫1万7366人に動員令を出し、773年の実行を計画している。その暴挙は仲麻呂の失脚で実行されることはなかったが、結局779年の新羅からの使者を最後に、両国の正式の交流は一切なくなる。
正倉院に鳥毛立女屏風という美人画がある。唐のものと思われていたが、下貼りに使われていた紙から国産品だと判明した。
両国の関係がこじれていた752年、新羅の王子、金泰廉が700人もの随員を伴って王の代替わりの報告に来た。この時も日本側は”王が来るべきだ”と例のごとく威張ったが、さすがに王子を追い返すわけにはいかず入朝を許した。鳥毛立女屏風の下貼りに使われていた紙は、なんとその時王子が贈り物として持って来た文物を購入するための注文書であったのだ。
五位以上の貴族には購入権利があり、皇族の池辺王などは実に46種もの物品を申請している。黄金、香料、顔料、染料、薬物、器物、朝鮮人参などが人気だったようだ。朝貢国と見下し、「新羅無礼なり」と罵っても、その到来品は憧れの”新羅物”として、争って買ったことがわかる。
貴族の世離れした贅沢さに、屏風を仕立てる装潢師がこの反故紙を見つけ、「こんなもの下貼りに使ってしまえ」と思ったのではないかと想像すると、ちょっと面白い。