朴正煕大統領は国民を教育しながらビジョンと目標を実現できるように体制を整備、これらの制度化、法制化に精力的に取り組んだ。国家の基幹産業などを迅速に育成するのに不可欠の措置を特別法で制定した。近代化と経済発展の設計図を法制度で具体化したわけだ。
実際、特別法の制定は限られた資源を効率的に動員、配分するためには避けられない措置だった。経済発展のための設計図に従って必要な資源を法や制度によって動員できるようにしたのだ。これは同時に、無分別な動員を防ぐ装置でもあった。
これについて過度な政府主導という批判もあるが、奇跡と言われる重化学工業の建設がこのような法的・制度的装置なしで可能だっただろうか。実際に第4次中東戦争(1973年)が触発したオイルショックにより先進諸国の経済までが揺らいだとき、韓国は機敏な緊急対処でこれを克服、さらに飛躍の機会にすることができた。
韓国とは異なる環境条件で得られた経験や教訓ではなく、韓国の状況と条件下で徹頭徹尾、目標達成と効率さを優先させた創造的な対応のみが輸出競争力を持つことができた。この風土で強い競争力と挑戦精神が鍛えられた。無気力だった韓国人たちに競争意識が芽生え、自信とビジョンを持つようになった。真の国民の国、国家の国民たちが作られ始めた。
繰り返し触れたように、「維新体制」はすぐ中産層を作り始めた。そして中産層が厚くなり、彼らは徐々に発言権を強めるようになる。彼らは自分たちを中産層にしてくれた維新体制に疲労感を感じ始めた。労働者たちは高度成長の過程で労働組合の活動が統制され、相対的な剥奪感を感じる集団となってきた。そして労働者たちのこうした相対的剥奪感を刺激、扇動する政治家や、職業的革命家たちが増え始めた。
新民党の院内総務の金泳三議員は69年11月、党の71年大統領候補指名大会に出馬を宣言しながら、いわゆる「40代旗手論」を打ち出した。金泳三は「朴政権の不法かつ強圧的な3選改憲強行後、内外情勢を冷静に分析し党内外の多くの同志たちの意見を総合した結果、71年の選挙に新民党の大統領候補に出馬することにした」と宣言した。
金泳三は「40代旗手論」の根拠として「まず、5・16軍事クーデターを通じて登場した現執権勢力、つまり71年の総選挙で戦う相手側は、野党の平均年齢よりはるかに若い、第2に解放後25年間、野党の法的系統を継いできた新民党(当時)が、国民的支持を受ける指導者を出して李承晩政権を倒そうとしたが、指導者たちの老衰による身体的障害で2回(申翼熙、趙炳玉)も平和的政権交替の直前、座絶した苦い歴史を持っている」と政権交代のため若い指導者が必要だと主張した。
金大中と李哲承も党の大統領候補指名大会に出馬することで「40代旗手論」はさらに説得力を得て、「40代旗手論(40代候補論)」への牽制を制圧、新民党大統領候補指名大会には金泳三、金大中、李哲承が出馬した。
金泳三らは「民主化」さえできれば国家(の経済)は発展するという「スローガン」を掲げ「維新体制」に挑戦した。朴正煕大統領を頂点とする近代化革命勢力の立場からは、彼ら野党の「40代の旗手たち」も「民主化万能論」に陥り、権力闘争ばかりに没頭する、能力と経験より観念論にとらわれて生きてきた朝鮮王朝の両班の末裔の「守旧反動の政客たち」だったのだ。
(つづく)