歴史には、新約聖書に出るユダヤ人の行動、つまり、ローマ総督に強盗を釈放し、イエスを十字架にかけるよう求めたユダヤ教の指導者や群衆のような行動がしばしば起こる。
性理学原理主義勢力と、彼らを利用し権力を握った(社会主義)「職業革命家」勢力は、歴史を彼らの基準によって規定、記録しようとした。そこで彼らが憎悪してきた対象を徹底的に悪魔化した。愚かな米国人などを利用し李承晩・朴正煕時代には自由がない、言論の自由がなかったと扇動した。国際社会に対し韓国の建国を歪曲、毀損した。
彼らは、大韓民国の敵に対しては警戒心もなかった。そのような観念論者たちまで保護したのが朴正煕だ。朴正煕は、金日成との戦いに勝つため、金日成が「4大軍事路線」ですべての資源を軍事力に投入しているとき、韓国は国家予算に占める国防費の割合を減らしていった。朴正煕は常に本質的な勝利、戦略的勝利を徹底的に追求した。朴正煕は最後の日まで、一刻もこれを忘れたことがない。
金日成は嘘と欺瞞、暴力しか知らなかった。金日成は、朴大統領を殺害するため青瓦台を襲った「1・21事態」(1968年)についても、平壌を訪問(72年5月)した李厚洛情報部長に対し、次のように伝えた。「朴大統領にお伝えください。その何事でしたっけ、青瓦台事件でしたっけ。朴大統領に非常に申し訳ない事件でした。われわれ内部で生じた左傾盲動分子たちが全的にやったことで、決して私の意思でも党の意思ではありません。私たちも当時、知りませんでした。私が何のために朴大統領を殺そうとしましょうか」
金日成は、70年6月、国立墓地を参拝する朴大統領を爆殺するために暗殺工作員を送った事件には言及さえしなかった。朴大統領としては、まともな高等教育も受けず、権力維持のための動物的な感覚だけが発達した遊撃隊出身の金日成を扱うことなど難しいことではなかったのかもしれない。
朴正煕の金日成に対する警告は、金日成が挑発し板門店で起きたポプラ事件(76年8月、米軍将校2人を北韓軍兵士が斧で殺害)の際、「私たちが我慢するのにも限界があります。狂犬には棒が必要です」という警告で、金日成の本質を突いた。朴大統領には韓国内のいわゆる「民主化勢力」が遥かに厄介な存在だった。
「10月維新」を前後して在野勢力を中心に登場した「民主守護国民協議会」(71年)や、「民主回復国民会議」(75年)に対し、朴大統領は冷たい反応を見せた。「この国にいつ、回復する価値のある民主主義があったか」「春の端境期も凌げないのに、何が民主主義か」これは単純な冷笑ではなく、朴正煕自身の統治理念だった。彼は西欧の古典的民主主義を韓国政治に導入し真似するのは虚飾的な民主主義に過ぎないため、直さねばならないと考えた。
「西欧の民主主義」の真似をするのは、浅薄な事大主義根性だと批判した。これは朴正煕だけでなく、中東や東南アジアなど封建後進社会から独立した新生国の指導者たち、革命家たちに共通する考えだった。
純粋な民主主義とは高価なファッションのようで、日常的に着られる実用性がない。アジア的価値を掲げたシンガポールの李光耀、マレーシアのマハチルなどの成功を見て、米国学者が語った話だ。都市国家のシンガポールを率い、朴正煕より長く執権、退任後も先任長官として国政に寄与し、「民主主義は本質的な要素ではない」と言い放った李光耀はあまり独裁者と非難されることがない。
(つづく)