大韓民国の建国史358

目標達成のためには政治的負担も甘受した朴正煕
日付: 2024年07月23日 11時38分

 朴正煕は革命家だ。彼は自分が設定した目標と課題を達成するため、ポピュリズムなどではなく、正攻法で臨んだ。朴正煕は国民を教育し、法と制度を変えねばならない状況に直面すると果敢に推進した。その戦略・原則は、妥協の対象ではなかった。
必ず推進すべき国家の目標や課題に対し、挑んでくる勢力と妥協しなかった。もちろん人間の限界が分かる実用主義者だった朴正煕は、絶えず補完策を講じた。”指導者は国民の教師であるべき”と信じていた朴正煕は、いつも率先して言行一致の手本となった。人気のない政策も果敢に、また黙々と推進した。積極的・開放的な政策などが、権威主義的な体制にとって結局は負担になる可能性が高いと分かっていても、推進した。
税金をより徴収しようとするのは、どの時代・どの権力にとっても、政治的に大きな負担になる。多くの場合、自殺行為だ。だが、政府に税収増大が必要になるや、朴大統領は特別消費税法の制定(1976年12月)に続き、アジアでは初めて付加価値税を施行(77年7月1日)した。
朴大統領は、長期的・戦略的に必要な政策や措置ならば、注目されなくても種を蒔くように投資、支援した。「国民教育憲章」を作った朴大統領は、例えば、貿易入国のために必要な語学人材を養成するため、民間商社の会社員や公務員たちの外国語教育を積極推奨、支援の実質的かつ具体的な措置を講じた。そのため、韓国外国語大学に夜間過程を開設した。
韓半島の北の金日成王朝が、全住民を洗脳するため思想教育と偶像化宣伝にすべての資源を投入したのとはあまりにも対照的だ。朴正熙と金日成のこの正反対の戦略・統治は当然、直ちに結果として現れる。「反共」は貧困からの脱出を通じてのみ達成できると信じた朴正煕が、南北の体制競争で金日成を圧倒するのは当然だった。
ところが、朴正煕のこのような実用主義は、当然、軍事革命によって打破、革新の対象とされた原理主義・教祖主義の封建的既得権による抵抗とぶつかった。繰り返し述べてきたとおり、原理主義勢力の武器は「民主主義」(民主化)だった。「10月維新」も一言でいえば、この原理主義勢力の教祖的反発を無力化、制圧するための措置だった。直ちに手術しないと死亡する状況で、手術を拒否し薬で治療すると要求する患者に対する応急手術が「緊急措置」だった。
自由民主の憲法体制を守る法的装置が国家保安法だけだった大韓民国にとって、緊急措置は避けられなかった。朴大統領が患者を生かす医師のように取った措置を、「民主化」原理主義勢力は米国や、甚だしくは社会主義勢力とも連帯して「独裁だ」と非難、罵倒した。
「反朴正煕勢力」は常に「民主主義の危機」「民主化」を主張したが、いわゆる民主主義の危機とは、朴大統領が作ったものというより、彼ら自身が作り出したものだった。彼らは封建時代の士農工商の崇文体制を安定した体制とみなす立場だった。何よりも、彼らの多くは安保を無視した。自分たちのために、未熟な新生国であった大韓民国を「民主化」の名分で揺さぶるのを憚らなかった。彼らはひたすら朴正煕を攻撃した。
韓国を米国の立場で統制しようとするワシントン当局にとって、李承晩と朴正煕のような自主人、民族主義的韓国人たちは厄介な存在だった。「民主化」という原理主義・教条主義を選ぶのか、国民を貧困から解放し中産層を建設して自由民主体制の土台を建設するのかという選択で、ワシントン当局や米国のメディアは、しばしば原理主義側の肩を持つ事態が韓半島で起きた。

(つづく)


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