平安時代以降、韓語が訛り多少発音が違ってきた言語、すなわち日本語が誕生。その日本語が、もともとあったかのごとく扱い『記・紀』や『万葉集』を読み解いたとするのが、日本の古代史研究なのだ。これでは、いくら研究しても、残念ながら、真実の歴史は見えてこないだろう。
ヤマトタケルに英雄のイメージはない
ヤマトタケルは神話上の人物とされるのが定説だが、九州は熊襲の討伐説話や東国での蝦夷討伐説話などの英雄ロマン譚は、日本人の心に深く刻みこまれているという。だが、実際に接してみると、そんなに感動を受ける英雄の物語ではなかった。
熊襲討伐譚では、女装して紛れ込み、熊襲タケルを騙し討ちにしたし、東国は焼き殺されそうになった時に草薙剣で助けられ、また暴風雨の浦賀水道を渡る時は弟橘姫の入水によって助けられた。つまり自らの力ではなく、神に助けられたということだ。そのような説話からも、ヤマトタケルは実在の人物ではなく、創作された人物だと見なされるのに十分な材料を提供しているのだ。
京都は丹後の『海部氏系図』は長らく極秘とされ、最近公開されて国宝に指定されたのだが、極秘にされたゆえは、『海部氏系図』を参考に、『記・紀』が編述された可能性があるからだろうと思われる。『海部氏系図』を極秘にしなければ、『記・紀』のウソがばれてしまうからだ。
ヤマトタケルに丹後の海部氏系図の影
ヤマトタケルの時代は、大和朝廷など存在しておらず、つまり”幻の大和朝廷”の時代で、丹後の海部氏勢力、つまりホアカリ(火明)一族が大和に入植し、大和地域を開拓した頃と見られる。ホアカリはニギハヤヒと同一人(神)格とされており、ニギハヤヒが神武より先に大和に居住していたことは、『日本書紀』も明記している。
大和朝廷が、姿かたちを現わすのは400年前後で、沸流百済による突如の大和侵寇で、百済系大和王朝が樹立されたからだ。当時の情報閉鎖社会にあって、沸流百済の出自が不確かではあっても、先住の新羅系山陰王朝の構成員にとっては、韓地であるか九州であるかは重要ではなく、外来集団であることに変わりなかったからだ。