大韓民国の建国史357

対外開放を最優先課題とした独裁者・暴圧者がいたか
日付: 2024年07月09日 11時31分

 性理学原理主義の復活を防ぐための朴正煕の闘争は教育だった。革命児の朴正煕の哲学は、国家を発展させるためには内外環境への適応と挑戦だけということだった。
そして変化無双の世界で機会をつかむためには準備されなければならない。「準備されている状態」とは「教育されていなければならない」ということだった。
1968年末に宣布された「国民教育憲章」は一言で、5・16革命精神を教育憲章の形で宣言したものだ。
(前略)「誠実な心と丈夫な体で、学問と技術を学び、身につけ、生まれながらの各人の素質を啓発し、われわれの(今の)立場を躍進の足場として、創造の力と開拓の精神を養う。公益と秩序を優先し、能率と実質を崇上して敬愛と信義に根ざした相互扶助の伝統を受け継ぎ、陽気で温かい協働精神を鼓舞する。私たちの創意と協力をもとに国が発展し、国の隆盛が私の発展の根本であることを自覚し、自由と権利に伴う責任と義務を果たし、進んで国家建設に参加し奉仕する国民精神を高める」(後略)
実際、個人にもあらゆる挑戦と逆境が同時に機会になるのは、国家も同様だ。そして個人がせっかく訪れてきた機会を逃すと、機会が危機になるのも国家でも同様だ。善意でやってきたように見えた機会が悪夢の危機になり、危機が祝福になることもある。このような姿勢で国家経営に取り組んだのが朴正煕の革命政府だった。朴正煕は常に逆境と危機を機会に変える自信、ビジョンを追求した。
植民地で生まれ、文明史の巨大な流れの中で翻弄されながら不死鳥のように鍛えられ生き残った者たち、苦難を克服し生き残る世代には、逆境と苦難は同時に機会という教訓、哲学が身に付いた。朴正煕だけでなく、いかなる既得権も与えられなかった者たちには、逆境を機会にせねばならないという生存本能が植えられていた。
韓国人たちには植民地も、戦争も古い殻を捨てる機会となった。封建体制の解体、旧秩序の崩壊は恨むばかりの状況ではなかった。日帝植民統治と戦争は多くの韓国人を不死鳥に鍛えた。
要するに、国民教育憲章から一節だけ取るなら、「われわれの(今の)立場を躍進の足場として」」と言える。つまり、共産全体主義と特にスターリン体制の悪性変種の金日成体制、米国の保護と干渉などはすべて大韓民国を鍛える材料として利用できた。もちろん、高価な犠牲も払った。
李承晩建国大統領は、建国当時、国民の4分3が、文字が読めない状況で、全国民に直接・普通・平等選挙権を付与した。特に女性の参政権を保障した。そして、自分が育てた自由の理念と体制が成熟し、それによって、そして同盟の米国によって追い出された。
朴正煕大統領は、維新体制という強力な統制体制を敷いたが、彼を独裁者とばかり罵倒できるだろうか。朴正煕時代の韓国は徹底した開放路線、大々的海外進出を推進した。維新体制を宣言、工業立国と貿易立国のため、政府は外国語教育を強化した。高校教科で教えた英語、ドイツ語、フランス語、中国語、スペイン語に日本語を第二外国語として追加した。日本語は、西欧の言語に比べて学習しやすい点で、ほとんどの高校で圧倒的多数の学生たちが第二外国語として日本語を選択した。歴史的に対外開放を積極的に推進した独裁者たちはどれほどいただろうか。このようなリーダーをただ権力のみを求めた暴君、独裁と同じように独裁者と呼び誹謗するのが妥当なことなのか。
(つづく)


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