分かりやすくいえば、韓地が新羅主体勢力となり、倭地が百済主体勢力の地ということになって、新羅憎しの感情が、倭地の百済勢力の間で増幅されたということだろう。それが尾を引いて、現在の日本でも、朝鮮憎し、韓国憎しという感情を内在しているのだろうといえる。
日本列島は外来文化によって成り立っている
『記・紀』が神話的表現法を脱して、歴史記述に近い体裁をとりはじめるのは4世紀代であるとされるのだが、韓地との関係が、日本の立場を歴史の中で強化していこうとの作為が強すぎて、歪曲されているという。いわゆる”韓隠し”というものだ。その意味から韓地の史書である『三国史記』や『三国遺事』を詳細に検証すれば、韓地と倭地との関係は、かなりの程度まで復元できると言われている。
室町時代の永享2年(1430年)に書かれた『熊野三巻書』という本があるそうで、それによると熊野権現は摩竭陀国から日本へ飛来したことになっているのだが、修験道信仰らしい話の作りになっているという。中国の天台山(浙江省天台県)から飛来したとする説もあるのだが、要するに海の彼方から日本へ渡ってきたとする観念が基層にあることを洞察できるという。そして熊野権現は、初め鎮西の英彦山に天降り、次に四国の石鎚山に飛び、次に淡路の遊鶴羽山に飛び、次に紀伊の無漏切目に飛び、最後に熊野神倉山に降臨した、ということになっている。
その観念の基層には、日本列島は外来の文化によって成り立っているということを傍証するものだが、日本史学界はその基層を否定して、日本列島自生による歴史を主張するものだから、基底の部分で魑魅魍魎となってしまうのだ。換言すれば、基底にある外来文化が、いつの間にか幽霊のような存在になって、倭地に自生しているかのような錯覚をおこさせ、その幽霊のような存在を前提として、歴史や文化を考証するものだから、わけのわからない砂上の楼閣の論述となってしまうのだ。
”幻の大和朝廷”もその一つで、その意味から、『記・紀』を韓語で読み解く方法で歴史を探求する史学者らは、新しい説得力のある説を多々発表している。換言すれば、もともと日本語というものは存在せず、韓地から渡来した人たちが使用していた言語、すなわち韓語が日本語のもととなった言語だということを傍証するのだ。