私が出会った在日1世~革命家・金時鐘の歩いた道② 安部柱司

亡命なのか、難民なのか?
日付: 2024年07月02日 12時27分

 韓国と日本の間には割り切れない問題が多い。6月20日の『朝日新聞』に「世界に1・2億人の難民」という解説記事があった。紛争や迫害によって故郷を追われる人が増え続けているそうである。金時鐘が1949年に済州島から大阪へ渡って来るに至った経緯は、『朝日新聞』紙の解説にある「紛争と迫害」による難民そのモノだ。だが、体裁は「亡命」であった。
金時鐘の『朝鮮と日本に生きる』の記載に拠れば、49年6月に日本へ脱出とある。脱出では難民なのか亡命なのか、判別しない。そして日本へ渡って来て直ぐ、半年の経過で、50年1月に日本共産党に入党している。朝鮮戦争の勃発前である。その素早い身のこなしは「難民」には見えない。金時鐘の日本へ渡って来た理由は、明白に金達寿や張斗植たちと違う。張斗植の自伝『ある在日朝鮮人の記録』を読めば明白だが、それは「渡日」であった。金時鐘は済州島から脱出して来たのだ。

翌年の51年1月に民戦が結成されるや、金時鐘は大阪・中西朝鮮学校再開の活動に参加する。民族学校再開は朝聯を受け継いだ朝鮮民主統一戦線(民戦)の主要な活動であった。そして52年6月の吹田事件へ参加する。
法務研修所が54年に『吹田・枚方事件について』を刊行した際、
「6・25吹田擾騒事件は、日共大阪府ビューロー、朝鮮民主統一戦線大阪府本部の指令に基いて、6・25記念日闘争の一環として、日本民主青年団大阪府本部、民主愛国青年同盟大阪府本部、大阪府学連、自由労組に属する青年行動隊員、朝鮮人、学生、労働者等によって行われた軍事方針を実践した実力行動によって惹起されたものであるといわれている」(同書1頁)
と、大阪地方検察庁は規定している。        *
むろん、この吹田擾騒事件では多くの朝鮮人の青年が逮捕された。その裁判闘争は長く続けられ、15年経過した67年に吹田事件弁護団が『吹田事件控訴審最終弁論要旨』を刊行する。それは大阪地検の規定に反論するものだった。その中でも、弁護士の杉山彬氏の「なぜ朝鮮人が本件デモ行進に多数参加したか」と題する弁護の言葉が金時鐘の『朝鮮と日本に生きる』の中での渡日後の弁明に重なる。
杉山彬弁護士の検察への意見は、
「在日朝鮮人の多数は自らの幸福を侵す敵が誰であるかを明確に感じとっていました。その敵は本件デモ行進を騒擾呼ばわりして大弾圧を加えました。しかもその後、今日までその敵は在日朝鮮人の民族的民主的権利と生活を侵害し続けているのです」(3113頁)と、在日朝鮮人に対する日本政府の「高圧的姿勢」への抗議であった。

1952年の当時に、金時鐘を在日朝鮮人と規定できたのだろうか?金時鐘は在日朝鮮人として武装闘争に参加したのではなく、国際共産主義運動の担い手として加わったのである。
『季刊三千里』誌が刊行されると、金時鐘は創刊号から寄稿する。だが、発起人に加えられていない。それは金時鐘の武装闘争歴を問題にしていたからだ、と推察される。
金達寿は武装闘争が日本社会の朝鮮人への差別感情を助長したと述べている。金達寿の口癖は、「戦前の朝鮮人差別は武装闘争後に比べ、ひどくなかった」であった。
金達寿は紀行「日本の中の朝鮮文化」の仕事で、日本の古代史に触れ、朝鮮とのかかわりを掘り下げて行った。それを評論家の矢作勝美は「在日朝鮮人への差別感情を薄める作業」だったと評価した。


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