『國』が『国』に改悪された時
いまなお世界各地では紛争が絶えない。世界地図の国境線は常に変化を続ける。その度に人々は逃げ惑い、悲しみの連鎖が渦を巻く。そこに暮らす人々の安寧が『国』の役割だが、世界はそうなっていないのだ。『国』とは『国家』とはいかなるものなのだろうか。漢字を紐解くことで考えてみたい。
『国』という漢字は占領軍GHQの指導のもとに制定された当用漢字表に由来する。戦後に漢字の原意を無視して改竄された文字の一つである。『国』という活字をわざわざ新しく作ったのだ。当用漢字表採用の名目は、「漢字を簡略化して人々の識字率を上げる」ことにあった。ところが実際にはそうではなく、漢字の原意を壊すことに精力を注いだというのが真相なのである。
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漢字の略字採用に関しては戦前の国語審議会で既に熟考されていた。一九四二年に作成された標準漢字表があり、当用漢字表には基本的にこの新字を採用することになっていたのだ。その字は、『囗』の中が『王』となっている字であった(図①比翼連理花迺志満台参照)。『囗』という区域を『王』が守っているのでこの字になるという。大変わかりやすい会意文字である。この字は、漢字文化圏共通の略字であった(同図①参照)。
ところが、戦争に負けて主権を失ったのだから「王は存在しない」として、点を追加して『玉』という字に変更させられたのだ。国の主権を失った立場では『国』という字にも口出しはできなかったのである。
略字体でもない『国』という字を正当化した根拠は、俗字に確認されるからだ。これは、国構えのくずし字が点を左右二個に記したものと『或』のくずし字の点が混同された誤用であるが、俗字として使用された。そのため、『国』の字は歴史的な書を集めた『書道大字典』などには記載されていない。
しばらくして、漢字の本家であるはずの中国でも漢字全廃運動の嵐が吹き荒れ、簡体字に移行した。『囗』の中を『民』にするか『王』にするか『玉』にするかで揉めたが、結局は日本で採用された『国』を採用したのだった。共産主義国家としてはこの方が都合が良いと考えたのかもしれないが、それは不明である。
甲骨文の『國』の原意と四十を超える『国』の異体字
『國』という漢字の成り立ちは甲骨文字や金文を見るとわかりやすい(図②)。地域を表す『囗』を『戈(ほこ)』で守っている姿である。その『囗』をさらに厳重に表現するために『囗』の上下に線を入れて完成したのが『或』である。この『或』を更に厳重に城壁である『囗』で囲った形が『國』という漢字なのだ。即ち、二重に守りを固めた姿が『國』なのである。
『春望』という杜甫の五言律詩がある。冒頭の首聯を吟じる時、漢字文化圏の人々は杜甫の心に感じ入って涙する。
國破山河在(國破れて山河あり)
城春草木深(城春にして草木深し)
今、中国と対峙するモンゴルは北と南に分断されている。モンゴル国では今でも千昌夫の『北国の春』がカラオケの人気曲だ。その理由は社会主義の重圧から解放された証だったからである。この曲が自由革命の喜びと重ね合わせて歌われた曲だったからに他ならない。しかし、南モンゴルは未だ中国に蹂躙されたままだ。残されたモンゴル文字も風前の灯だ。春は来るのだろうか。
『国』という漢字の異体字は現在確認されているものだけでも四十を越える。台湾の教育部異體字辞典には三十二の異体字が掲載されている(図③)。『国』の字にはその数だけ人々の思いが込められていたに違いない。国とは何か。今こそ考えるべき時なのかもしれない。
(つづく)
水間一太朗(みずま いちたろう)
アートプロデューサーとして、欧米各国、南米各国、モンゴル、マレーシア、台湾、中国、韓国、北韓等で美術展企画を担当。美術雑誌に連載多数。神社年鑑編集長。神道の成り立ちと東北アジア美術史に詳しい。