私が出会った在日1世~革命家・金時鐘の歩いた道① 安部柱司

済州島武装蜂起から大阪での武装闘争へ
日付: 2024年06月18日 12時26分

 日本社会は本当に心が広いというか、奥行きが深いことを実感させるのが詩人・金時鐘への「大佛次郎賞」の授与であろう。
金時鐘は、第42回大佛次郎賞を受賞している。1948年の済州島武装蜂起に参加してから、67年が経過した2015年の受賞である。大佛次郎賞の第1回受賞者は、中野好夫『蘆花徳冨健次郎』と、梅原猛『水底の歌 柿本人麿論』だった。第1回は1974年で、2001年28回目の受賞者は津島佑子『笑いオオカミ』と、萩原延壽『遠い崖アーネスト・サトウ日記抄』であった。
受賞者の一覧を眺めていくと社会的に評価された作品が選ばれている。つまり、金時鐘『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)は、日本社会で認められたのである。在日朝鮮人では金石範『火山島』に次ぐ二人目の受賞者である。

日本では東京大空襲から広島・長崎と、米軍に一般市民が無差別に集団殺戮された。沖縄でも、非戦闘員が10万人は殺戮された。日本社会の底流に流れる反米思想は、それら米軍の行った集団殺戮を忘れていないからだ。
だから、済州島武装蜂起への鎮圧作戦でも米軍の関与で大量虐殺が行われたのだと説く金石範の『火山島』へ評価が生まれたのだろう。日本人の心奥に『火山島』は届いたといえる。そして、金時鐘の表現もそれに連なっているように感じられもする。
ただし、金石範は4・3事件を描いた作家だ。あくまでも『火山島』はフィクションである。しかし、金時鐘の描いた4・3事件の場合は異なる。

金時鐘は、済州島の武装蜂起に参加し、1952年の日共の武装闘争では最前線でたたかっている。済州島では米軍相手の戦闘だった。大阪でたたかわれた武装闘争は、朝鮮戦争の前線を支えた日本からの軍需品の運搬阻止の実力行使でもあった。
済州島に大阪、金時鐘は革命の第一線でたたかった戦士であった。済州島では南労党の党員として、大阪では日本共産党の党員として、国際共産主義運動に忠実な戦士として、第一線に立っていた。まさに稀有の個人史を持つ革命家である。その何れもがマルクス主義に忠実な戦い方である。武装蜂起、武装闘争で行う権力への戦いから、そのように言える。金時鐘の自伝的回想記の『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書)には、その戦いぶりが鮮明に描かれている。
その第六章「四・三事件」で、南労党党員の実体験が語られている。第一節「四・三事件の烽火が上がる」では、決起への呼びかけのビラ作りから配布までが記述されている。第二節「『山部隊』への期待」では、5月半ばまで島民が武装蜂起組織に期待していたと述べられる。そして第三節「幻に終わった和平交渉」では、武装蜂起組織と韓国軍の間で一旦停戦の動きがあったものの米軍が取り潰したと述べている。米軍への怒りが描写され、武装蜂起組織への弾圧が強まる過程で、後方の地下南労党組織の摘発が進行しており、金時鐘の身辺に危機が迫る。そして、金時鐘は済州島を脱出する。

『朝鮮と日本に生きる』に記載されている年譜には、次のようにある。
1949年6月、日本へ脱出
50年1月、日本共産党に入党(6/25、朝鮮戦争勃発)
51年(1月民戦結成)、3月大阪・中西朝鮮学校再開の活動に参加、(サンフランシスコ講和条約、日米安保条約調印)、10月、在日朝鮮文化人協会結成、『朝鮮評論』創刊
52年6月、(吹田事件)

吹田事件は武装闘争であった。このように、国際共産主義運動に忠実であった金時鐘。そして、その活動を誇った金時鐘が「大佛次郎賞」との評価を受けた。このことは民主主義社会の原理原則と相容れるだろうか?


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