第2次世界大戦後の新生独立国の中で、韓国だけが短期間で産業化革命と中産層の形成に成功したのはなぜか。韓国の重化学工業は「維新体制」という独裁・強権システムなしには完成できなかった。
豪州国立大学の金ヒョンア教授は、1972年から労働者の大闘争があった87年まで、純粋な工高出身は77万人ほどと推算する。他に職業訓練院出身も技能工隊列に加えた。金教授は、2次経済開発5カ年計画が終わる71年頃になると半熟練工たちがあふれたが、彼らが職業訓練を通じて工高出身たちよりは技量が低いが技能工として再誕生したという。
70年から87年まで約200万人の技能工が誕生したが、金教授は、このうち職業訓練を通じての技能工が120万人、工高出身は80万人ほどになるといい、200万人のうち約半分ほどの100万人が重化学工業を支えた技能工と推算する。
ところで、エリート工高出身の77万人は全部が男性だった。彼らは文字通り「産業戦士」だった。事実、重化学工業という用語そのものが米国を安心させるための用語で、技能工を大量育成した究極の理由も自主国防・防衛産業の育成だったことは言うまでもない。
彼らは実際、産業兵営のような環境や体制で軍隊式に養成された。例えば、金烏工高の場合、軍人出身が校長として赴任、学生たちは軍人のように育てられた。それで、金烏工高出身の中では事実上、軍隊生活を8年間もしたと吐露する人も少なくない。軍隊のような3年間の学校生活に続き、技術下士官として5年以上、服務せねばならなかったという。エリート工高出身の回顧を聞いてみると、初めて入学した時は本や制服など無料でたくさんもらうが、「5年の間、技術下士官として服務する」とサインしろと言われたという。当時、民間企業はもちろん、軍隊にも機能工たちが大量に必要だった。米国からの古物武器を導入したため、これらを修理、手入れするのが国家的課題だっただめだ。
エリート工高の育成が新しい階層への梯子だった点は、特殊工高進学者の選抜方式を見ると分かる。例えば、代表的なエリート工高だった金烏工高の場合、別途の選抜試験がなかった。青瓦台から指示が下りれば、道知事が地方教育庁や郡守などと協力し、上位5%以内に入る成績の優秀な学生たちを指示された人数で選抜した。
まるで軍隊の募兵を連想させるシステムによって、選抜された入学生の3分の2程度が貧しい家の学生たちだった。高校平準化に対する反発も大きかったが、産業化革命に必要なのは法科大学を出た弁護士など封建時代の士大夫類でなかった。理工系教育が不足した国々は産業化に失敗した。朴正煕大統領は基本的に改革家・革命家で、朴正熙政権は平等志向、あるいは農村中間階級志向という特性を持っていた。朴大統領は、エリート工高の育成政策を文教部ではなく、商工部に任せた。
大韓民国の工業化の成功は、先進国の干渉を排除し抵抗したため可能だった。米国は、新生大韓民国の工業化や住民生活の向上より、絶えず制度的・手続き的な民主主義のみを強いた。米国が要求した通り選挙を通じて随時大韓民国のリーダーシップが変わり、それによって政策が揺れたら、韓国の産業化と発展が可能だったのだろうか。米国や先進諸国が支配する国際機関などの提案と干渉に従い政策を立てて推進したら、産業化を完成させた重化学工業などは試みもできなかったはずだ。
(つづく)