年の始めに神社に参拝、冬にはキリスト誕生を祝い、結婚式はキリスト教、葬儀は仏式。最近では古代ケルト人のハロウィンまで加わっている。日本人は元来、多神教なのだ。縄文時代から続くアニミズム(原始神道)のDNAが今も日本人の心の奥底に生きているのではないか。山、川、風、雷、樹木、石など、あらゆる自然に神(精霊)が宿る八百万の神を祀る伝統なのか……ということで、今回は日本の神道・神社、さらには韓半島との関係も勉強してみた。
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はるか古代にはアニミズムは東アジア共通の信仰で、例えば魏書に韓半島東海岸にあった〓の条に「山や川の神を大事にして、あちこちに聖域を設けている」とある。日本でいう鎮守の森である。
古墳時代(3世紀末~6世紀中頃)の人々はまだアニミズムの世界にいた。古代にはもちろん神社などない。精霊が降ったり宿ったりする場所を清らかにする程度だったろう。神の声を伝えたのはシャーマン。巫女であった。卑弥呼はもちろん、箸墓古墳の被葬者、ヤマトトトモモソヒメや伊勢神宮の斎王、ヤマトヒメなどもズバリそうであろう。倭(日本)、新羅は古代に女王を生んだ。倭では6世紀末~8世紀に8代、6人。新羅は7~9世紀に善徳、真徳、真聖の三女王がいたが、いずれも巫女的な役割があったのだろう。
アニミズムの聖域が神社として形を整えていくのは6世紀の仏教伝来が契機だろう。仏像が家屋の中にあるのを見て、神にも家が必要ではないかと考えたに違いない。とはいえ、仏教が国教となって信仰を増していくなかで、神社の大部分は寺院の下に置かれる存在になってしまった。昔から日本人の宗教心は変わり身が早い。
奈良朝末期から平安朝期に神仏混淆思想が生まれる。神様が仏様のお経を聞いて、有難がって弟子になったという話を国家が作り上げた。神仏を共に祀り、寺に付属した神社(神宮寺)を作ったのはその一つ。神宮という尊称は古代新羅の始祖廟の呼び名に倣ったものだといわれ、小物の神はそのまま仏弟子になり、大物の天照大神は大日如来、八幡神と熊野権現は阿弥陀如来、素戔嗚尊は薬師如来、大国主命は大黒様と同じものだとしてしまった。なんとも珍でむちゃくちゃ。伊勢神宮など国家が関与する大神宮は別として、中程度以下の神宮では僧侶のほうが上で、神主がお経をあげていた。
1000年以上続いたこのヒエラルキーが逆転したのが明治維新。廃仏毀釈もあり神仏分離で国家神道が成立。天照大神が頂点となり、今度はお坊さんが神主に転向するよう命じられることになる。日本人の心の中はともかく、国体的に神道の国というイメージが強いが、それは維新から太平洋戦争までの話で、その時代は宗教的に問題が多かった。
◇渡来人はどう考えたか
それでは韓半島とのつながりはどうだろう。
主な神社の数
現在、日本にある神社の数は8万社といわれる。最も多いのが稲荷神社で2万社近くあるのだが、稲荷は「稲生」の意で、もともとは稲作の豊穣を祈った農耕神である。総本山は京都(山城)の伏見稲荷大社なのだが、そこを氏神としたのは加耶から渡来して、この地方を開拓した秦氏である。秦氏は日本全国に移住して発展していった。そのため各地に分社が広がっていったというわけだ。嵐山にある松尾大社もまた秦氏の氏神である。
その数2位の宇佐を本山とする八幡神社も渡来人関連の神社のようだ。702年に作られた豊前(福岡・大分の一部)の戸籍台帳が残っているが総戸数の85%が秦氏とその係累だったという。元々は海神を祀る神社だったが、韓半島から渡来した鉱山関係者の鍛冶神としての性格もあるようだ。旧・八幡製鉄もそれに由来して命名したものか。
『原始の神社をもとめて』(岡谷公二著 平凡社刊)は大変参考になったが、氏が神社と渡来人の関わりについて「きりがないので、このあたりでやめておく」と書いていることからもその多さがわかる。
ところで渡来人の氏神というなら神も一緒に来たかということになるが、(1)渡来神を渡来集団が祀る(2)渡来の神を在地集団が祀る(3)在地の神を渡来人が祀るというパターンが考えられる。中でも(3)の例が一番多いらしく、前述した松尾大社も(3)である。稲荷神社も秦氏より先住の弥生人たちは神体山として稲荷山を祀っていたが、その後住み着いた秦氏農耕集団がその信仰を引き継ぎ、本格的に稲荷山を祭祀したらしい。先住の弥生人も渡来人だったに違いない。もっと考えれば縄文時代から続くアニミズムは韓半島も日本列島もそれほど違ったものではなかったから、抵抗なく受け入れることができたのだ。