明白に日共の武装蜂起に参加した履歴を持つ金時鐘と『火山島』作者の金石範は、2001年に平凡社から「済州島四・三事件の記憶と文学」についての「対談」を刊行する。
この文芸雑誌『すばる』(2001年10月号)で金石範は、「在日朝鮮人文学」について、朴裕河・井上ひさし・小森陽一と語りあっている。ここでも金石範は済州島四・三事件について語っている。それは25年前の1976年発表の『民族・ことば・文学』(創樹社刊)の内容を引き継ぐものであった。米国と韓国軍への憎悪の感情を維持している。
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漢江の奇跡と言われる韓国経済を発展させ、出稼ぎに行かなくても「食える」済州島社会を建設した朴正熙大統領への厳しい視点を守っている。その一方で、食うや食わずの国を造って、脱北者の相次ぐ北朝鮮の金日成政権への批判は抑制されている。
四・三事件当時の記録、「済州島の現況」というレポートに、全島民のほとんどが食べるに飢え、経済的に安定しえない点に共産主義がつけ入ったと記述されている。貧しさが共産主義のつけ入る穴だと気付いた朴正熙大統領の生涯は、それとの戦いであった。
その朴正熙大統領の戦いを、金石範は1976年から2001年の作品の中で評価していない。いわゆる「転向」をしなかったというアリバイを朴正熙批判で維持し続けている。
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『金石範「なぜ書きつづけてきたかなぜ沈黙してきたか」金時鐘』(平凡社、2001年刊)の「編集後記」に、この対談を発行した平凡社編集部の関正則氏が以下のようにまとめている。
「なぜそこに居なかったのか」「な ぜそこから離れてしまったのか」
解放の日に、故郷が血塗られた時に、 祖国が分断に喘いでいるさなかに、 なぜ祖国ではなく、祖国を侵した国 にいたのか。祖国への「不在」と「離 脱」が悔悟と自責の響きのなかで、 その意味を求めて繰り返し問返され る。(300頁から)
その「不在」と「離脱」の事実は南労党の指導者であった朴甲東の「済州島の党員を日本へ派遣した」という証言から推測できる。それに日本へ潜入した南労党党員の「記録」もある。これらからも金石範の日本への潜入による済州島「不在」は、南労党の対日工作とかかわりがあったように推測させてくれる。
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済州島「不在」と「離脱」、その原因は日本への潜入が原因であったとすれば、そのことがかくも長きにわたる「悔悟」と「自責」の念を抱かせたのであろうか。
金石範不在の韓国で、貧困からの脱却に朴正熙大統領は生涯を捧げていた。一方、金石範が青春を捧げたマルクス主義に基づき建国された北朝鮮では、未だに貧困から脱却出来ずにいる。
北朝鮮でも四・三事件同様に犠牲者を出した事件が発生していた。38度線以北を占拠したソ連軍は戦利品として残留日本資本を持ち去ろうとした。それへの抵抗、こぶしを挙げた多くの朝鮮の青年たちは機関銃でなぎ倒された。
李承晩政権を四・三事件で血塗られた政権だと正当性を批判するなら、ソ連軍の血塗られた占拠のあとに成立した金日成政権にも批判の目を投じなければならない。
そうしないのは、金石範がマルクス主義で朝鮮半島の近現代史を論じているからだ。革命家の金石範は、悔悟と自責の念で今の豊かな済州島を直視できないでいる。